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2016年1月11日(月)

今朝はいきなり昨日借りて部屋のなかにあったジャイアントのオフロードにまたがりチュプルンガを往復した。あんなに苦労した距離があっという間に感じた。だいたい同じ時間に徒歩でやって来た友人とはケイタイ屋、インド料理屋、バッバティーニ(スーパーマーケット)で落ち合った。いったん宿に戻りふじやまで天丼をシェアし、私一人でもう一度チャリに乗りポカラピザの店にバスチケットを受け取りに行った。BJの娘が微笑んでわたしてくれた。その足で、午前中買った風呂の栓が自分の部屋のバスタブに合わなかったので、そもそもホテルの風呂の栓を買いに歩き回るのは客としてそれほど楽しくなかったが、長い距離を走り、ときどき押して歩き返品に行った。自転車をレディに返し、午後5時過ぎにもどった。ぬるいシャワー、洗濯、ホテル代の支払いを終えると昼寝からさめた友人がこっちに歩いてきた。夕食はNの店で鶏を揚げてもらった。「よく焼いたね」とNが日本語で言っていた鶏は表面が硬く、肉もボサボサして2本目には鮮やかな血が何カ所かあった。帰り道、友人はFBの件の念を押した。今度はただしく答えることが出来た。


あと5日。なにか自分が本当にしたいこととは別のことをしている感じがする。ここに来るたびに思う。つまり気を使うことに慣れない。
2016年1月10日(日)

必要なことは何か、決まっているのだろうが時々自分では分からない。オフの日が訪れ、大体は問題はない。私は二兎を仕留めた、と言われた。Hの子供たちに日本の、子供じみた菓子セットのプレゼントを渡せたし、Hの叔母から水を2本買った。そのずっと前にレンタサイクルの女店主と話して明朝のチャリでのチュプルンガ行きも出来そうだとわかった。どんな感じだろう。Bとはやっと夕方に会えた。しかし彼はここでずっとPCに向かっている。Nのネットワークが、PWを変えようとした時にハッキングされ、それを修正する作業に集中している。ネパールのこんな辺鄙な店がどうして、と誰もが思う。帰りに、今日のうちに借りたママチャリをジャイアントに変更しに行き(チュプルンガまでは登り坂だからギアが必要だと2人が言った)、自分の部屋のなかに運ぶのを手伝ってもらった。

「いいかい、これからあんたが帰るまでの数日、FBに自分のことを書くなよ」という意味の英語を質問形式で言った。していないし、する気もないのに。ノーアイドントとだけ答える。一言でもつけくわえてたり逆に質問するとアギュラー(言い争い)になる、と言う。たかがFBなのに。必要なこととは、相手の馬鹿げた要求や態度を傍観する能力かもしれない。うまく出来なかったときは、あっというまに自分が小さい存在になってしまう。
2016年1月9日(土)

私のなかの密かなもくろみはレイクサイドからチュプルンガまでの1時間半の迷わない自力徒歩で今日それができた。ジルのビールの場所、日本人好みの高級ホテル、稲作田圃、103.4Fmステーション、サッカーフィールド、二輪の多い大学、プリビティハイウエイ、オレンジ売り場、葬儀の人が歩いていたところ、ニューロード、バッバティー二、新聞売り場、セイフウエイ、ディスカウント通り、そしてついにキャンティーン(学生食堂)に到着した。30分後に宿を出発した友人とは、そのゴール地点で会えた。そのしばらくあとRに会った。


彼は昨年9月に酔って大腿骨骨折をしていて身動きの難しい状態に関わらず松葉杖でJのレストランに来てくれた。酒はきっぱり、それも一生やめたそうだ。「90歳くらいに見えたよ」とあとで友人がひとに語っていた。それは誇張だとそのとき私は思った。


空港への長い路路はしかたなく二人連れだった。英語の指導をうけながら歩いた。イエティ航空の嘱託職員S氏を彼のオフィスで見つけるのは簡単だった。かなりの時間をそこで過ごし、レイクサイドに戻った。部屋でシャワーを浴びてから毎日行くNの店でまた別の特製料理を出してもらった。南アの仕事で来ている白人男と最後に少し打ち解けてホテルに戻った。明朝、Bと会える。
2016年1月8日(金)

「今日はのんびりする日」と連れが言った。「あんたの銀行とあんたのバスチケット」「うん」次にそれは一人でも行けるわ、と言ったが運動になるから一緒に行くと言われた。あと自分は荷ほどきを終わらせてFBに写真を投稿する、とも言った。実際隣りのせまい部屋は、私の今使っている部屋に比べればベッドが2台なので広いはずなのにモノが溢れているで溜め息が出るほど「狭い」。まるで冬季エベレストアタック隊だ。朝食はホテルでたべた。銀行では8.9のレートで2万円だけ両替した。KCの店で彼と妻、仔犬を膝に抱いた娘に挨拶した。BJの妻は留守でチケットは今度にした。昼食は「ふじやま」で、私は天丼を連れは親子丼を食べた。宿にもどって私の部屋移動の交渉をし、明朝から気に入ったほうの部屋に移ることが決まった。「たった200ルピーの差だよ」と連れが言い「うん、まあね」と同意した。1泊700円が900円に変わったということで、10泊しても東京でたった1泊の値段だった。今夜は「ジルさん、Bがアルモンドに来れなくて残念だね」と言うわけでお決まりのNの店に行った。明日は時間差で別々にチョプルンガに行くことにしたので、丁寧な地図を手書きしてもらった。もっとも欲しかったものが手に入った。ただFBの話題(あんたがネパールに一緒に来てることを書くなという内容)になると「リラックスしたい」と言って一方的に私の会話を遮った。ドアで別れるとき特別にさみしい感じがした。
2016年1月7日(木)

楽しくない理由を見つけるのは簡単だった。その男と一緒に過ごすことで。それも複数ある。最大は自己愛。そして傲慢、横柄。私たちのスケジュールのなかでつねにあるもの。二つ目は私の英語の聞き取り理解。三つ目は動物虐待。四つ目は癇癪、みたことも聞いたこともない憤怒、私に向けられたとき、凍りついてしまう。さらにチープ(スティンギー)。さらにさらに書けば人種差別。それらの理由を思い出すだけで、この人間とのネパール旅行は今回限りに違いないと思う、間違いなく。

逆に恩恵はある。

この日は初めてチョプルンガを徒歩で往復した。片道1時間半。曇りで時々陽光もある。一枚ずつ上着を脱いでいった。テーブルの配置がすっかり変わった学生食堂で食べ終わるとBが家からバイクで駆けつけた。お喋りの半分は彼のビジネスだったので聞き流していた。私のザックを修理屋で直してもらい、古いデパートの6階で1回、バッバティーニでオシッコを2回した。途中「私歩くの遅いから先に行って」と言うと心よく了承した。やっと解放された、と感じた、たぶん相手もそうだろう。東京で買ったウォーキングポールが役に立っている。1月にしてはかなり暑い空気が立ち込めていた。インド人のスモールショップで缶ビールを飲むと私を覚えていてくれて「3年目だね」と言った。いったん部屋に戻り電話をいれてからNの店に行き、外のテーブルでずっと過ごした。3時の約束通りBが来て、すぐにSもやって来た。若いスタイリッシュなネパール男で優秀な技術者らしかった。英語をあまり話せない。私は最後に少しハメをはずしたが皆はそれを喜んでいた。いっぽうNは婦人警官のように店の前をパトロールしていた。宿にバイクで送ってもらった前後を少し覚えていない。
2016年1月6日(火)

早いものでかれこれ1週間がたち、ポカラに泊まる2日目があった。今日も何人かの知人や犬に再会した。まずNの店で朝ご飯にしようと、キッシーの弟からチョコペストリーを2個買って行き、Nと最後のひとかけを食べたモニタも一緒だった。つぎにあと数ヶ月で完成するというホテルのオーナーH、彼の妻と湖のきわで話してから、建築中の建物の3階で茶を御馳走になりこの国の様々な状況を聞いた。そのあとHはたっぷり時間をかけ7階から、60あるすべての客室を順に説明して回った。おとなしい飼い犬のブラウンはずっと一緒だった。5階に降りた頃から茶を何杯も飲んだ私の膀胱ははちきれそうだった。ようやく休業中のラブクリシナレストランの見慣れたトイレに座り競馬馬のような放尿した。遅い昼飯にまたNの店に行きネパールうどんとボトルキープしてあるロキシーを楽しんだ。いったん部屋に戻り、友人のやっているポカラピザに行った。食べ終わって店を出ようとするとBJの妻がバイクで帰って来たところで、しばらくの間お喋りをした。周りを楽しくさせる人だ。裏道をぶらぶらしながら宿に戻った。明日が雨でないといい、とおもう。
2016年1月5日(水)

「今日は気を使う日だ」と友人が言い、部屋からの荷運びやタクシー交渉やバスパークでの立ち回りを上手いことやってのけるのを脇で従っていた。荷は確かに多く5個、3ヶ月滞在分のと私の1個。小さな身体のネパール男があっけなく担ぐ。レインボーバスでポカラに到着するやこう言った。「二度とこのバスは使わない、理由は4つある」そのうちの一つ、給油での1時間半のロスは、国境封鎖の影響なのだから受け入れるべきだ、と私は心の中で言った。荷物がまた2つ増えた。Bの家で預かってもらっていたプーバッグがタクシーから降ろされ、新しい宿の庭にあった。部屋はある理由で二つに別れ私は一階だった。Hのクローズしているビルを眺め、Nの店に行った。Nは喜んで私たちを迎え、素晴らしいダルバートを作ってくれた。途中で加わったBと四方山話をしている時の友人はイキイキしていて、それにも増して若いBの素晴らしい造形美の顔が目の前にあった。今日のロキシーはイモ焼酎の臭さがあった。私はリラックスし、うただねをした。この宿の12泊の1日目が終わった。
2016年1月4日(月)

悪いといえば悪い、そうでもないとするとそうでない。物事はシナリオ通りではない。だとすると全てのタイムラグを容認する。とても遅い朝食を取った後に、モンキーテンプルの頂上までを徒歩で往復した。地震の写真を撮り「ジルさん、あんたのスピードにあわせるよ」と言ってくれて歩き始めた。すぐに吠え犬が現れ、友人は構て言った。「スティックをくれ」咄嗟に私は断った。「これは私のだから」犬が激しく吠え続け「スティックをよこしな」こっちも激しい口調だった。私は数歩前に歩き出した。飼い主が控え目に犬を呼ぶ。犬と人間の音の激戦は続き、怒ったヒトの怒りは私に向いた。「脚を噛まれたらどうするつもりだ、このアバズレ、クソ野郎」「…」それが続いたあと私はあまり言い返さなかったが、どんどん先を歩いて行ってしまった。結局宿までずっとだった。最悪は、これで終わりでバス代を返されてバイバイかな、と推測した。宿に戻るとロビーにヤッコサンはいて、まるで何事も無かったみたいだった。数十分してから「まだあのことを怒っている?」と聞くと同じ意見を繰り返した。「その話はやめよう」と私が終わりにした。韓国料理の夕食を終えてインターネットの無いロビーでこれを書いている。友人はUSの妻に短いリアル電話を終えた後、アムステルダムの恋人にも長いのをかけている、と思う。間違った、その逆だっ た。「笑ったり話したり食べたりしよう」とか「待ちきれない」って言ってたから、私の名前もなんども出てたけど。
2016年1月3日(日)

昨日の夕食は近くの食堂で鶏のダルバートを食べたが、今回の全ての機内食、ラウンジ食同様、米もおかずも残念賞だった。今朝はホテルで軽いセットを頼み、すべて平らげ、やっとマシな飯にありついた。そのあと私のニキアをスモールショップで見てもらうと、1年前に使い残した分がそっくり生きていてシムカードを買い足す必要もなかった。杖をホテルに取りに戻ったあと、被災の様子をカメラに収めながら遠くまで歩いて行った。日曜日だったからか通りという通りは人であふれかえり杖は1本つくので精一杯だった。ヒンズー教の壊れた寺寺の区域で店に入り小休止をした。そこでポカラの親友二人と電話が通じた。帰路も迷いながら宿に到着し、明後日のバス券を手に入れた。近所の少年に私は日本の菓子をあげた。友人が父親を知っていて地震で亡くなった話を聞いたからだった。夕食は無料リキシャでステーキ屋に行き、帰りは杖をホテルに置いてきてしまったが宿までの歩きをなんとか楽しめた。部屋を大きい方に変えてもらっていたのでゆったり使えるようになっていた。
2016年1月2日(土)

夜があけたのは、どこのラウンジだったか、、、スワンナプームの東と西で合計4つか5つのタダで入れるラウンジがあって「2時間だけですよ」とか言われて几帳面に出たりはいったりして10時間を過ごした。友人たちも早朝にホテルをでて空港ランド側にいたと後でしった。1人が入れ替えのようにタイ航空で成田に飛び、もう1人はまだランド側でスタンバイをしていた。結局C10ゲートであえて搭乗し、空いていたので隣の席に座った。カトマンズに着いて、荷物のゴタゴタがあり、送迎車で馴染みのホテルに着いた。車窓から見た昼の景色に今までと違いはなかったが、クルマの走行量が少ないことに気づいた。「まるでバンダ」と私はつぶやいたあとで、余所者がナニヲカイワンだ、と反省した。インド国境閉鎖があってガソリンが高騰しているとか、なんやかんやの状況は私のとてつもない距離にぼんやり眺めるだけのはなしだ。ただの一人のツーリスト。