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2015年1月30日(金)
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長い1日の前半はパメというフェファ湖沿いの村までの朝散歩だった。宿をまだ薄暗い6時半に出て目的地には2時間半後の午前9時ちょうどに到着した。そこには30分おきに出発地にもどるバスが通っていて、ちょうど立って待っている人々のかたまりがあった。そのかん一軒の茶屋で生姜の入ったミルク茶を頼み、私は菓子パンを食べて今日1回目の膀胱炎の薬を飲んだ。ひどい揺れの市バスでレイクサイドにもどり、銀行での両替と500ルピー(600円)以下の中古トレッキングポールを探して何軒かの店を見た。ポカラピザ店でほうれん草のパスタの朝ごはんを食べたあとにHのレストランに寄っておしゃべりし、Nのレストランで塩茶とスナックを食べ今日2回目の薬を飲んだ。宿にもどってすぐに4時予約の病院に行き、もう一つの検査結果と主治医の診察と診断書の依頼をした。私たちは3時35分に到着しすべてを終えてタクシーで宿に戻るとまだ4時9分だった。すごい時間の節約だという意味のことを言って友人は喜んでいた。これでHにタクシー代の領収書を作ってもらえば保険会社が要求するだろう現地での事務処理のすべては終了ということのようだ。体調のほうはもんだいない。そういえば主治医の表情も明るかった。


1時間後にルーフで集合して夕食を食べに再びHの店に行った。長さ的には定番のガーリックステーキが胃袋に消える時間もなかなかだったが、それ以降にHと3人でユーチューブで映画のさわりをみたりソフトウエアをインストールしたりiOSをアップデートしている時間の長さがまさっていた。午後9時にパーティがお開きだから会えるかもと夕方の電話で言っていたBを友人は心から待ちわびていて、その様子は友人同士のそれを超え、まるで片想いの恋人のようだ。それを期待してはいけないのがネパールの習いなら、私もどこか似たような感情で友人を待っていた。でも一線を越えないようにしていて(自分が二人のあいだで本当にしたいことを伝えない)、不思議なことにこんなのにも慣れてきた。


去年とっくに成約したのに「以前のハウスメーカーがまた家に来た」と息子からメールがあったのでノキアで国際電話をかけてみた。そのあと「今日なんか日本に帰りたいと思っちゃったよ」と友人に伝えた。「そういうことってない? USに帰りたいとか」と聞くと「まったくないよ」と答えてくれた。
2015年1月29日(木)

昨日「今日通院で行けなかったラブリマウンテンに明日行きたいな」と私が言い「あんたが行きたいなら行くよ」と答えてその予定になっていた。午前7時に宿を出発しホランチョークから来た道をBの父親の学校の道へショートカットして13ツリーズストリートと自分たちで呼んでいる道に出た。そこをなおも進むと目指すラブリマウンテンの麓に出た。するととつぜん「今日はやめてバスパークへ行こう」と言うので「え!? なぜ? のぼろうよ」とおどろいて言うと「のこりの2週間あんたの膝が痛くなっていてほしくないんだ」と言ったあとしかたなく車道をのぼり始めた。途中樹木の生えている箇所が遠くに見えて「ここにMとよく来てキスしてたよ」と説明し、そのすぐ後に「あんたに言うんじゃなかった」と言うから「なぜ? それってスイートな話じゃない?」そして「それに私は誰にも言わないよ」と付け加えた。とちゅう景色はよかった。つぎにいつもの学生用食堂で揚げ物を食べて処方された抗生物質を飲んだあと、Rと待ち合わせてもと「Mの店の場所」で茶をした。0キロメータチョークでBのオフィスにも寄り、塩茶をいただいた。Nの店で昼食を取り薬を飲んだ。いったんホテルに戻り、のんびりしてから再びNの店でBと待ち合わせて夕食を取り薬を飲み宿に戻った。私はNの娘26歳のAに3ヶ月はやい誕生日プレゼントを渡した。


そう付け加えれば「薬局の女の子には断ることにした」と友人が言い「なぜ」と聞くと「悪い状況だから」「??」「彼女すぐ結婚するから付き合う時間が短か過ぎるだろう?」「イエス」「結婚後にはまたチャンスがあるかもへへ」、そしてチプルンガからの帰り道に実際そう話して来たらしい。私は少し離れた場所でそれが終わるのを待っていた。


それと「帰るときあんたのSIMカードくれない? 来月くる姪にあげたい」というリクエストには2回とも「ごめんダメ」と答えた。
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2015年1月28日(水)

今日はゆっくりとした朝食を Hの店で取りHが同席した時に病院に関する情報を聞き入った。すると2つのよい病院を紹介してくれて、さらに従業員にバイクで順番取りに行かせてくれるという段取りまでもらった。問題は日本の保険会社への電話だったが色々考えすぎて時間がかかった。結論的にはなんてことなくて自分のノキアを使って簡単にかつ安価に連絡が取れ、私の病気にいいというビールを添えた昼食後私たちは出発した。その病院は私たちが毎日通うルート上の奥まった場所にあった。そこは、なんというか日本の病院とははるかにかけ離れていた。病院というより50年前の民俗博物館のようでなにもかもが古い。待合室などは屋外の古びた狭い公園のようだった。警官を含む何人かで担架に寝た瀕死の病人が何度も運ばれて来た。ベッドで寝ている貧しい患者たちを見るとTVで観たアフリカのそれか野戦病院を連想した。


私はまず受付というか東屋のような場所で医師の診察料金1000ルピー(1000円)を支払い、約束の時間まで診察室のそばで待つ。若い白衣の女性は看護師か医局の事務員で忙しそうに出入りしていた。しばらくして私と友人は一緒に診療室に入った。私は女医の英語を友人に翻訳してもらい、私の英語を翻訳して女医に話してくれた。「膀胱炎」という英語やその他はノートに書いた文字を医師に見せた。婦人科医だったので例の股を広げての触診などがあった。他の二つの検査がオーダーされてその都度まず費用を東屋に行って支払い最初のそれは検尿で100円だった。そのあとの超音波(3000円くらい)の部屋はわかりにくく、全ての場面で友人は力を添えてくれた。結果の場所にも立ち会い、私の質問事項を通訳してくれた。


一番の関心はこっちのほうらしかった。つまり「膀胱炎は自分に感染するかどうか知りたい」と本人が言っていたので「それは体のずっと奥の方だから関係ないよ」と私が言うと「あんたの意見を聞きたくない。医者のを聞きたい」と答えた。私は最後の診察で「すみません、彼の危惧していた感染とかですが、どうだったんですか?」「彼には感染しません。場所が全然違うからです」「これは女性に非常にありふれた病気です。薬を処方します」と答えた。再びタクシーで戻り「Hの店に着いたら礼を言って今度奥さんと二人を日本料理店に招待すると言いなさい」と言われた。「招待っていう意味わかるよね」と念を押し「ごちそうするってことでしょう?」と聞くと「そのとおり。あんた持ちってことだ」と答えた。私は彼に大変世話になったので彼がこれから利益を受けるように彼の隣人におごることが意味があると理解した。招待の件をHに伝えると笑顔で受け入れてくれた。


薬を宿に忘れて来てHの店に食後もずっといた。早く一回目の薬を飲みたいので一人で宿に戻った。

2015年1月27日(火)

チョプルンガに向かうさわやかな朝、あれいつもと違う、ファーマシーのあるルートで私たちは歩いていた。理由は友人の心が若い薬局女で一杯だからだ。しかし7時台はいくらんなんでも早かったので店は閉まってた。そのあといつもの学生用食堂で朝ご飯を食べ、次に路上の靴屋に私のトレッキングシューズとデイパックのほころびを100ルピーで直してもらい彼はチップを加算した。デパートのトイレで用事をすませいったん私だけがパスポートを取りにホテルに戻りHの店でロールとアイスティーで昼を食べたことにしたあと銀行で1万円を両替した。

そのHの店にいたときに「私病気になったみたい」と相手に告げた。膀胱炎の症状が出たからだ。トイレから戻って2、3分後にまたそこに行った。3、4回通った。「それはハネムーン症状かも知れないよ」と言ったので「ううん、私としては不潔なトイレのせいかも知れないと思う」と答えた。まだ排尿後のツンと刺さるような感覚と、ずっとつきまとう尿意があった。友人がファーマシーガールのところに「話し会いに」言ってくるといって不在になった午後、私は部屋でカード会社提携のサービスを読みながらどうやったらいいのか考えたがこの国の電話会社の事情や自分のノキアの使い方もよくわからなかった。

しばらくして「今もどったよ」という声がして「どうだった?」と聞くと「なんにもなかったよ。彼女は来月結婚するんで明日の披露宴パーティーに招待されただけさ」「なの? 残念」「でも来週の金曜に二人でサラムコートに行くと思う」「へえ、それって彼女にとって独身中、他の男と冒険を楽しむ最後のチャンスじゃない?」「そのとおり、でも一泊するのは無理って言われたけどね」「まあねえ」

「彼女はハネムーン症状なんだ」夕食時にポカラピザの店でPがいつものように遅れてきたBに説明した。ホテルではインターネットが悪いのだがこの店でアクセス可能だった。ここでネパールにはコレクトコールのシステムがないことを知った。「1分間6ルピーの両替屋に行って電話するしかないよ」と二人の友人が言い、それは今夜の停電時間中は不可能なので電話と通院は明日に延期された。頻繁な尿意はそんなになくなった。面倒をかけたくないと思っていた。
2015年1月26日(火)

宿の主人と長男をよろこばす、友人が薬局の女の子との初デートをゆっくりたのしむ(コンドームをあげたし「私の部屋を使ってもいいよ」と言ってカギを渡そうとしたら、さすがにいらないと言った)という一石二鳥で私がひとり結婚式に出た。概要は新郎の家で皆が祝福の挨拶を順に行い、本人よりプラスチックバックにはいった赤いスカーフのようなものを記念にいただいた。つぎに大型バス3台で新婦の実家のある村のホテル会場まで3時間かけて行った。午前10時半に出発して1時半到着。そこで両親族友人ご近所や関係者が600〜700人が合流し、新郎新婦のコーナーでは宗教的な儀式や挨拶が延々と続く。参加者はあと二つのコーナー、屋内のビュッフェの会食と音楽隊の前での踊りのコーナーをそれぞれ楽しむ。別の香典返しももらってしまった。開けると100ルピー札が入っていた。午後6時になって再び3台のバスに乗り込みレイクサイドに戻った。往復とも私にはすでに座席が無く、運転手部屋で苦しい姿勢でいた。これもどちらかとうと面白い。


私は帰りのバスの発車時とレイクサイド到着時に友人に電話をいれ、レイクビューで降ろしてもらい、Nの店に寄って3人でおしゃべりした。今日のNと友人とはすごくいい感じだったので「私は今日疲れていて寝たいから先に帰るね。ゆっくりしてって」と言うと「イエティ(雪男)が待っててあんたを襲うから一緒に帰るよ」と友人が言ったので私は額に塗ってもらった、すでに擦れてはがれた赤色のティカを指してこう言った。「これが守ってくれるから大丈夫」しかし一緒に帰った。「結婚式は楽しめた?」と言われて「うん、まあまあ」と答えた。つぎに「薬局の子はどうだった?」と聞くと「それがメールの返事がなくて電話したらなぜか家にいて会えなかった」と話してくれた。部屋に分かれてから、充電と洗濯、シャワーとこの日記を終えるとたぶん1時になる。
2015年1月25日(月)

今朝人質事件でのジャーナリスト湯川はる菜さんが殺害された報道をインターネットで知った。言葉がみつからない。

私たちは「長いコース」を歩く計画をしていて朝7時半に、いちおう私は自分の部屋の鍵をかけ終わり振り返りながら忌まわしい報道の話題に触れたが、その数分後に気楽なことに平和な道のりを楽しんでいた。プリティビチョークから東に向かって二つの丘が固まっている場所の向こう側を回るようにして極端な川の侵食によって形成された大地の上を進んだ。空港をはさんだ向こう側に雪山が大きく迫り、白く丸い日本寺も遠くに見えた。「じぶんがこのコースをひとりで見つけたんだ」と友人が言い「へえ、すごい。いいコースだね」と私はほめた。どこを歩いても散らばった色とりどりの信じられない量のゴミと土ぼこりはついて回り、騒音と車両が多い。今日は宗教的な祭日で人々は着飾ってそれぞれの寺にむかって歩いていた。空港からはタクシーでバグラムバスパークの近くにある冷えた美味いロキシーを飲ませてくれる食堂に行き、二人の友人を待ったが結局二人とも来なかった。スーパーマーケットで少しの買物をしてからシティバスでレイクサイドに戻った。部屋にデイパックと杖を置き、靴を脱ぎ足を洗った。暑い午後で友人はシャツを脱いでルーフトップでくつろいでいた。粉で作った鮮やかな黄色のマンゴジュースが大きなペットボトルに入っていた。私はビスケットを一枚だけ食べた。夕食に出かける前に来月のカトマンズの宿の予約をメールを私のマックを使ってしてくれた理由は、友人のPCかインド製のスマホのどちらか、または両方にWiFiが届かないからだった。

Hの店に行くとBも後から来てどこか元気がなかった。「昨日はありがとう」と私が言い、別の話題では少しだけ楽しげにしてくれた。Hが店に戻ったのは8時ころで、そのあとBは一足先に帰った。Hはこれから事業を成功させ10年以内にポカラで裕福な30本の指の中に入るんだと熱く語った。話の最初のほうで皆のなかで「ジル、すべてだいじょうぶ?」と声をかけてくれた。気配りの人間だ。いっぽう友人さんはこう言った。「日本人風だね、あんたは心配性すぎるんだよ」「もしこれがこうじゃなかったとしたらどうするの、とかいつも言うだろう?」「うん、母親ゆずりかもしれない」「おおくの性格は親からくるね」「わかってる」明日の用意をしてから寝ることにした。早朝のNとの散歩と宿の長男の結婚式の嫁の実家ツアーへの参加らしい。友人は別の予定がある。今回私が学んだことのひとつがそういうこと。
2015年1月24日(土)

この国の公休日土曜が今日で、朝の7時半に私たちはリラックスした人の流れの中を朝食をとりにチェプルンガに歩いた。(そこで私たちはRと彼の英語の個人指導を受けているネパールの若い女のNGO職員とお茶をした、彼女は外国人と英会話をするのは今日が初めてだと言っていた)しかし友人は大気汚染とゴミと騒音と車と人通り、それに道路工事中のファッキングなゼロチョークを選んだ。なぜか?  そこにはある薬局があってそこの従業員の若い女の子がサービスたっぷりに英語で話かけるから。こんなチャンスは逃せない。行きと帰りに彼女にアッタクして2日後のデートをゲットした、らしい。帰りに私は「ここから一人で帰るわ。ゆっくり会話を楽しんでね」と告げてすぐに左に曲がり、宿に向かった。午後にはいった時間で、人々は休日の時の流れを楽しみながらそぞろ歩きをしている。しばらく行くと馴染みの風景に出会った。雑貨屋で昨年、立ち寄ってビールの大瓶を飲んだ場所だ。主人や客と話し終わりいざ宿へ、と思うと道に迷ってしまった。結局レイクサイドに出て、以前泊まったレイクビューホテルからNの店を見つけ、無事に戻った。テラスで友人から少し古いシナモンロールをもらってひといきついた。よかった、なにかくつろげた感じ一人だと。


階下では近所の女たちが沢山集まって、長男の結婚式の準備の料理やら飾り物作りで盛り上がっていた。Bは約束の時間にやってきてPはルーフに立って注意深くその姿をみつけた。ジャケットを掛けるハンガーをBはいらないと言って直接フックに掛けた。彼は私が目を合わせると必ず魅力的に笑った。何人かの話し声が窓越しに聞こえたときに私はひやっとしたが大きな問題ではないと知った。Bのスマホはなんども着信メロディを告げるので最後には近くの物の上に立てかけられていた。今日の別のくつろいだ時間があった。

Nの場所にBは私たちを交代でバイクのタンデムで送ってくれた。チキンカレーと冷たい野菜料理、暖かいピーナッツの料理をボトルキープしたロキシーをコップに注ぎながら楽しんだ。2杯目は3分の1しか注いでくれなかった。理由は「ストレンジになるからさ、飯の前はこれだけ」とPが言って私は笑って「ならないよ」と答えその方法を承諾した。Nが全ての調理仕事を終えて私たちのテーブルに来たので私は二つのことを耳元で告げた。「Pはあなたを好き。Pはあなたと二人でいろいろ楽しみたいと言っている」彼女は少しカールした黒髪を下ろしていた。「どう思う?」始終笑っている。「グッド? オアバッド?」「もちろんグッド」笑った。「でも考えさせてください」今度は日本語で言った。牛のような本当に大きいおとなしい黒犬が寝るためにゆっくりとNのキッチンの脇を通って行った。歩いて宿にもどった。

手放すこと、すべてを受け入れることが自分を自由な気分にする、ますますそう思う。いっていの状況や人々(他人)の嗜好はかえられない。私はそれらすべての外側にいる。
2015年1月23日(金)

今朝はNと3人で朝散歩を約束していたので5時半に宿を出発して10分後にヒマラヤクイジンレストランに着くとNは支度を終えていた。大通りとFIWA湖の周りを往復して1時間半後に店に戻った。私たちはいったん宿に戻り8時頃にNの店で大きな朝食をとった。自分たちの朝食を終えていたNも私たちが持参した大きなシナモンロールをぺろりと食べてこれじゃ太るよと私は思った。そんな私も昨夜はすでに満腹状態で行った高級レストランでナンとピザとモモを詰め込んで窒息しそうになっていた。Nと彼女の一人娘アリーナのやり取りは可笑しい。Nは始終笑っているのにAはまったく逆で無表情で怒ったように大声で単語を叫ぶ。「ナニ! なんとかかんとか!」NもよくわからないことをすぐにAに質問するのでAはその答えを大声で怒鳴る。Aはしかしヤングガールなので細くて姿勢も感じもいい。最後にサービスで出たそば粉のパンとびっくりするほど美味しいダルバートソースとピクルスが私にロキシーを要求し、一人朝酒を楽しんだ。


再び宿に戻って各自の洗濯を終えてからバグネスレイクに遠出することになっていた。プティチョークまで小一時間歩き、そこからシティーバスに乗って終点で降りた。昨年来たことがあるので感動はどこにもなかった。同じ階段の道を上り、同じレストランの同じような席で同じオーナーに同じ冷えたビールと同じ魚のカレーを頼んだ。去年と同じ景色をながめて、Pが来月は誰を連れてこなきゃとか、昨年の2月と7月はどんな感じだったとかいう話を聞いていた。ビールはあまり冷えていなく魚は白身で柔らかく少し泥の臭いがした。バスを乗り継いで宿に戻り、1時間半後にHの店に出かけるよと言われて部屋に分かれた。


すごい荷物を持っているので聞くと昔のDellの重たいPCと小さいのと両方持って来てるんだと答えた。6時半頃に来る約束をしていたBに不具合を診てもらおうとしていたらしい。夕食を食べ終わった頃にBは来れないと電話があった。そのあとしばらくはHの7歳の長女の英語の宿題を私が遊びながら手伝っていた。母親はどこかイライラしていて時々控えめに多動な娘を叱っていた。帰り道「わかんないけど二人の属するカーストのせいでBとHは仲が良くないからこの店に来るの断ったのかも。だってこの前のドタキャンもHの店のときだったよ」とPが言った。「ふうん」と私は聞いていた。3階にあがりあいさつ抜きで各自の部屋に戻った少しあとにPが私の部屋にやって来て「今度のNと二人の朝散歩のときに自分は本当にNを好きだから仲良くなりたいと言っていたと言ってよ」とか、他のどうでもいい話をしたので「もちろんいいよ」と答え、すべて興味深げに聞いていた。今日は今日でビッグな日だったし、明日はもっと楽しいから期待しよう、という結論と親切な人柄をありがとうという意味のことを言って帰っていった。


今のところだいたい私の誓いは成功している、と思う。話題の提供も含め、自分の意見はカットして出来る限り不必要な労力が生じないようにしている。すると不思議なことに、手放すことですべてがすごく楽になった。と同時に私にとってしばらくはお邪魔することのないだろうこのインド系の国を不思議な方法で味わっ ている。
2015年1月22日(木)

まよった末に支度をしてドアの外にある椅子に座って隣のドアから相手さんが出てくるのを待っていた。午前7時半を過ぎていてドアがあくと寝ていた姿の太ったじいさんが出て来て「悪い、いま起きたんだ」と言った。なんの興味もないけれど毎日の長い距離の散歩について行った。あまりしゃべらない風にしていた。あいづちを打つなどね。いつもの学生用食堂でサモサとポテトフライを紅茶で食べてからPCの修理屋に行き1、2時間かけてやってもらい「いくらだったと思う? 200ルピー(200円)だったよ」と喜んでいた。空港に行ってイエティエアラインで嘱託をしているミスター・シンに会えたのは自分も嬉しかった。私を覚えていてくれたし。昼食をNの店で食べ、それは最高の調理だった。私のロキシーの2杯目の残りを「体重が違うだろう?」と言って自分の少ない残りと取り替えていた。本当だったらムカつくけどもういい気分だったからOKだった。「おりこうにしていたらご褒美をあげよう」的な会話があって私は相手に合わせた返事をした。Bと午後6時に夕食の約束をしていたので、その前の1時間で私たちは部分的に修復した。きのう心が離れてしまったので、きっとずっと部分的なのだろうと思う。初めて訪れた表通りと湖に面した感じのいい高級店でBと会った。Bと過ごす時間はミスター・シンのときと同じでやはり楽しかった。ホテルにもどり別々の部屋に分かれて行くときも、昨日や一昨日よりは人間的でマシな風に変わっていた。相手さんと「ただ一緒にいるだけでで嬉しい」という表現がなくなったので、特別の楽しみとか登場する興味のある別の人々とかにフォーカスしてやっていこうかな。
2015年1月22日(木)

午前4時に目が覚めてベッドの中でインターネットを開き、航空会社の便やヒマラヤトレッキングの案内を見ながら、今日からどうしようかと考えている。選択肢がいくつかあるようだがどれも適切でない気がする。3つの選択肢があって。

a. なんとか航空券の日付を変更したのち(まったく出来ないような気もする)ポカラ行きのバスの日付を変更してカトマンズに行き、3週間はやく帰国してしまう
b. 帰国便は変更せず、バスを変更し、カトマンズからルクラに飛んでエベレストベースキャンプトレッキングをする(装備が足りない、膝が悪いなどのもんだいあり)、もしくはポカラからのトレッキング
c. バスも航空券もそのままで、残りの3週間をいままで通り過ごす

c.がいちばん安易、でもとてもつらい。
それを回避する手段として
c - 1 感情を殺してつき合う。相手がこころよいと思わないだろう一切の不満を口にしない。二人の根本的な関係性などは絶対に話題にあげない
c - 2 日本語で通す?

c.は、、、今回の旅行はもうけの小さいビジネスと割り切る。
世の中にはたくさんの極端なまでに「自分こそが大切」と考える人々がいて、それは最初は目にみえなかった。心が通じていると錯覚していた期間はみえにくい。私の気持を語ると私の目の前には非常にけわしい鈍く光る両眼があって「ジル、自分にはあんたが理解出来ない」とこたえたとき、すべてが終わったと信じた。それは何回もあって。