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10月31日(月)

夕刻2泊3日の栃木旅行からも戻った。犬と女の友人と私は、買物をし料理と食事をたぶん4回し風呂に入り睡眠をとり、小1時間かけて2階の汚れた壁紙の修理を協力して行うなどして過ごした。それとそういえば、、、散策もした。紅葉をした観光地の見晴らしのよいベンチに座っていると3歳くらいの女の子が近づいて来た。その後その子どもは私の犬を抱きかかえて遊んだ。そのまま数歩引きずるように歩くかぶらんと抱えたまま立ち止まっていた。私の犬はじっと抱かれていて厭がりも喜びもしていなかった。私たちの帰り際、その子どもは追うように立ち尽し、親たちが盛んにその子の名前を呼んでいた。「何々ちゃん! 何々ちゃん!」私は抱きかかえた高齢の黒いトイプードルの片手を持ち上げてその子どもに向ってバイバイをした。やはり犬はその時も別に厭がりもしなければ特に喜んでもいなかった。
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10月28日(金)

ホットヨガを堪能した。ホットヨガは前日の予約ですと「取れる」ということがわかり、終わったあと私はTERU先生のこのクラスは出来るだけ申込みたいと思った。たった10人分の席(マット)なのです。1kg以上の汗を排出した。老廃物も着実に。それにどうしてあの部屋では、身体があんなに柔らかく曲がるのか自分ではまったく理解出来ない。でもTERU先生が回って来られて、それぞれにチェックを入れる時に私には、お腹の所をポンと指先で触れて「でもここ、、」と笑っておっしゃる。「ふふ」と私も笑う。それが2回。あ、今も気を抜けないです。身体の他の部分はリラックスしていいんですが、そこだけはという意味です。それが昼間。


夜は日本語コーチの生徒さんと1時間をともにした。今日のテーマは特になく、その方の毎日の仕事、特別な週末の仕事、他の場所での日本語学習の教科書や内容、または在留ビザ申請関係書類(日本語)を広げて話題にしたり、その方の国の戸籍制度、離婚後の養育費の制度などに関する日本語での雑談を行った。


帰りにスーパーに寄り明日から友人と二人で行く小旅行の食材などを買った。彼女が私と一緒に今週末を過ごしてくれることは嬉しい。
10月27日(木)
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↑公園でサッカー遊びをするサラエボの男の子たち
ここには書きませんが、それは何とか書けました。つまりボスニアシリーズの全体としてのディスクリプションです。それは故人が「50歳で俺一抜ける!」と宣言したことのプレ仕事として位置付けますと、カオラックのシリーズにつながるという意味です。おそらくは40代前半の仕事だと推定していますので。よかった、、、。
10月27日(木)
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遺作展の準備の一つとして〈ボスニアシリーズ〉全体のキャプションを、彼(故人)が私につづった大量のメールのから探し起こしてみた。しかし、コレといったテキストは見つからずじまい。2時間近くかかってしまったが。ただし、東ヨーロッパに思いを馳せたような文章は一つあった。


「低気圧が通過した後の快晴な朝です。おはよう! 母親が使っていた部屋の窓からは北緯43 度の窓枠に区切られた青空が見える。コーヒーを飲みながらその縁取られた秋の空を見ているとワルシャワやブタペスト、ソフィアのかつて東ヨーロッパと呼ばれた地域の秋を思い出す」

ーーーーここで、ソフィアに関して、私はWikipediaをひいた。

ソフィア(ブルガリア語:София、ラテン文字表記:Sofiya、発音:/ˈsɔ.fi.ja/、英語:Sofia)は、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人[1]である。北緯42度42分、東経23度20分。

「きっとそれは自分がこの北緯43度の緯度線上で生まれ育った環境がそうさせるのだと思う。(中略)戦争や内乱・クーデター、恋愛、死別、ほかの誰かと同様にそれぞれにおきた事柄は数え上げればきりが無く、それらの事象が世界の中の極微小な個に蓄積されているのは不思議な気持ちにさせる。」 

ーーーーー緯度が近い、なるほど!
                                       
「(中略)物理的にも精神的にも単に俺があっちに行ったりこっちに来たりの連続でしかないとしか答えられない。(後略)」

これらは使えるとしても、つまり彼自身のボスニアに特化したテキストは存在しないのだとするとどうしたらいいのだろう。このあいだボスニアに行き、彼の写真をそこの人々に見せた時のことを私が書く、という手はあまり推奨されるやり方とは思えないし。
10月27日(木)

毎週通っている特別養護老人ホームでの事業。受講生は8人、4組になって交替で乗ったり押したりした。お風呂も見学した。「わあ、みなさん大変なお仕事ですね。Tシャツと短パンとかで?」私が聞いた。「そう大変です、もう汗びっしょりになります。夏なんか特に」と職員さんが答えた。車いすの世話になる自分を想像するのは容易だが機械入浴の世話となる辺りは少し努力が必要だ。遅かれ早かれ人間通る道なのですが。


午前中行った歯科病院で、息子が保育園児だったときの園長先生に20年振りに偶然お会いした。よく「XXくんのお母様、、、」と話しかけてくれた現役でバリバリだった彼女もそこを最後の職場として現在お一人暮らしをされているとおっしゃっていた。なんだ、すべての人が施設の世話になることもなく、危機管理さえ怠らなければ自由で独立しているのが普通でしょう。
10月26日(水)

昨夜の続き、残りの3人について行った。
・男性/39歳 植栽販売、環境美化デザイン業、
・女性/47歳 主婦
・女性/25歳 一般事務

最初の男性はホテルで就業中にTSUNAMIに会う。怪我をしながら外国人客3人を救出し、しかし木材が誰かの胸を貫通したときの金切り声が脳から離れない、と言う。
二人目は麻痺のある夫と逃げ、そのあいだに父と甥を失う。ホームレスになりキャンプで暮らした後、子供たちに頼るようになる。
三人目の若い女性は一緒に逃げた同居の両親と1歳児の娘を失う。その後、建設労働者になるが借金も背負う。新しいその仕事も単価の低いミャンマー労働者に奪われてしまうからだ。
これら4人の話は、後の人になるほど厳しい印象を受ける。しかし比較することなど意味は無い。一様に被災されている。それだけの話だ。

問題はこれらのインタビュイーのポートレート写真がまったく存在しないか、特定出来ないかのどちらかであるという点です。
10月26日(水)

4人の人々と話をした。お二人とは車椅子を押して隣接する公園を散歩した。後のお二人とはたんにご機嫌をうかがう挨拶を交わした。男性であるその方はTVの前にきちんと並んで座っていらした。「足が悪い」とおっしゃった。私は彼が日本サッカーの草分けプレイヤーであることを絡めてジョークを伝えようとしたが上手く行かなかった。女性で病院から退院されたばかりの方は「おやせになりましたか?」と聞くとほとんど聞き取れない大きさの声で「やせました」とおっしゃって笑った。ベッドの上を見ると生年月日が書かれていた。私はその数字を覚えようとしたがそれも出来なかった。100歳には届いていなかったと思う。


人は色々な記憶を無くして行く。たった今日のことを驚く程すぐに。私がこの日記を自分の「記録」として書いているのはそのためである。
10月26日(水)

このために起きていた。BS世界のドキュメンタリー世界に生きる子どもたち「“ドナー150”を探して」番宣によりますと内容は「精子バンクの精子から産まれたことを知ったジョーエレンが父親を捜し始める。すると次々と兄弟・姉妹が見つかる。やがて父親にも面会することに。その顛末は…。」といったもの。


興味深い。このジェフリーというドナー提供者の生き方。ダンサー、役者、ミュージシャン、ストリッパーなどを経験し、現在は犬やハトとキャンピングカー暮らしをしている。若い頃に8年間、精子バンクに精子を提供して収入の足しにしていた。それと十数人にのぼった子どもたちも明るい。それに引き替えだいたいの精子被提供者である母親たちは意外に地味だ。私は立場的にこの番組の中でいちばん近い距離にいるのは母親たちなのだが。


私以外の日本の人々はどのように考えているのだろう、この人道的なビジネスについて。f0204425_153389.jpg
10月25日(火)

今日、故人による、2004年スマトラ島沖地震によるインド洋津波被災者へのインタビュー資料を邦訳してみた(原文はタイ語、通訳により英訳されている)。インタビュイーは4人。そのうちの一人は以下の内容です。ためしです。

1:姓名

ワチャラポン テアゴン


2:性別


男性 47歳

3:職業


パンガー県タイムアン地区海軍勤務

4:家族関係
4人家族



5:2004年12月26 日午前10時15分にどこに居たか。そして津波からどのように退避したか

12月26日早朝、私は息子を、タブラムにある海軍のゴルフ場のキャディーの臨時の仕事場に送る用事でオートバイに乗りました。私は地震を感じましたが深刻には感じませんでした。海やなにもかもは静かに見えます。が、私は海岸に水がなくなっているのに気づきました。
オートバイに乗ってもっとよく見るために近くまで行きましたが、その数分後、私は津波を目撃しました。私はオートバイを降りて自分の自動車の方に向かい、それを運転して逃げました。波は激しく車に衝突し、身体が自動車から飛び出て運河まで落ちました。ズボンは脱げてしまいました。私は小さな立木を引っぱって手で掴み、もう一方の手は流れて来る頭上のものをどけるために使っていました。


6:その時に親戚、知人の誰を津波で失ったか


私は16歳の息子を亡くしました。彼は10年生(高校生)でキャディーの臨時の仕事をしていました。早朝私は息子を仕事場に送って行くところでした。

7:その津波以降、どんな生活をしていたか


私は津波の後に元の仕事にもどりましたが、一方では大変困難でもありました。道路が無く、電気も無く、村の人々はみな大問題に直面していましたから。私自身は、家、自動車を初めすべてなくしました。ですがもっとも大きな出来事は息子を亡くしたことです。私には、息子の棺をさえ買うお金がありません。

8:現在どのような生活をしているのか


給付金によって私の一家はまあよくはなりました。けれどあの津波の状況はまだ忘れられません。

9:津波に依って自分の人生がどのように変わったか

津波の結果、それは失うものを失ったので悲しい気持になったということです。


10:政府や外国のNGOの援助に対してどのような思いがあるのか

政府が被災死亡者に2万バーツを被災家屋に1万バーツを支給しました。NGOのことは知りません。

11:これからどのような人生を希望、もしくは展望を持っているのか


人生の将来、それは希望です。そして学ぶこと。いっとき私たち被災しましたが、今は息子の棺のためのお金を借りるところまで来ましたから。
10月25日(火)

私は毎週このルートで東京を斜めに走ります。今日はたぶん4回目なのですが、予定時刻の2時間半前に家を出発しました。思った通り1時間前に目的地に到着してしまい、ガストでチーズ入りハンバーグ390円を食べて食後の薬を飲みました。それでも往きに1、2カ所迷いました。より近道を考えていましたので。1カ所目は420号が途切れる「三宿池尻」という地点から「淡島」の交差点へのルート。2カ所目は池ノ上駅から井の頭通りに出る住宅街のクネクネ。帰りは帰りで井の頭通りの「大山」交差点から「三角山」交差点を経て「池ノ上駅前踏み切り」に出、最後に「淡島」へ至るルート。そこを行ったり来たりしてやっと頭に入れました。次回はたぶん片道1時間半は割るでしょう。先週のお巡りさんの案内は最短であり的確でした。ただ帰路にその複雑なクネクネはどうやってもトレース出来そうもないので、やめましたが。


これで嫌いな環7も環8も走らずに最短ルートで目的地に到達出来そうです。ただ踏切は3カ所ありますがね(1カ所はあかずの、、、)。