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12月31日(金)

大晦日に観たTVと言ったら「アルフ/ファイナルスペシャル」だけ。
夕食は馬刺盛り合せ、サモサ、クワイの煮付け、ハスの煮付け、デザート。年越し蕎麦も用意したけれどお腹一杯で明日に持ち越した。

犬と二人の食後の時間。

何の感慨も隙間から入り込まない。

その少し前には感傷的になっていた。今年一年を振り返り。
昨日ある友人へのメールに「人生はとても短いのですから、逆にゆっくりとした時間を共に持てたらいいですよね」そして「人生はとても短いけれど、自分の大切な人よりは少し長いジルより」という意味を自署に書いた。

するとその友人は「いつか、誰でも人には別れが来ます。問題はそれを知る事が出来ない時もある、、」という言葉を選んで返事のメールをくれた。


とても適切でありがたい。
けれど問題は他の場所にある、とその後で思った。
「いつ」亡くなる、「いつ」「どこで」亡くなるというような事ではなく。
原因なのです。
その大切な人が亡くなった原因の相当分が自分自身にあるという点です。
「あ、亡くなった」「それは自分のせいだ」
その感覚は、不幸が起こった瞬間に最大の数値を示し、次第に薄れて行ったけれど、薄れて行く事自体が嘘でマヤカシだ。本当に「自分のせいで」そうなった。


だから2010年という年は、はっきりと自分の落ち度として記憶や脳裏に刻まれる。
大切な人を亡くした。
原因は神様だけが知っている。
けれどその不運な出来事と自分は関係がある。
その人をこれからもずっと心の中でこれ以上出来ない位に大切に大事に思って生きて行く。
謝罪して謝罪して。


一番大切な人を「助けてあげられなかった」2010年がもうすぐ終わりになります。
12月30日(木)

露天は7、8人かそこらが入れる広さの風呂が一つあり、白い樹脂製のガーデンチェアが数脚周りに配置されている。私はバスタオルをその一つにぐしゃりと置いた。


その露天風呂の一角に若い女性が一人腰まで入っていて何かとても多忙な様子だ。白いタオルが絞った感じで細長く片手にある。ビシッビシッと振り回しているのだ。ビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッビシッ、、、。いったん振り回してまた捻り、膝を経由して手元に戻るという複雑性を伴う。数人の入浴客は感知せずといった風に湯に浸かっている。向こう向きなので顔は見えない。時々冷たい飛沫が私の顔に当たる。


再び低温サウナに戻るとさっきの女性がいらしたので話かけた。
「あの方は何をされているんでしょう?」「ああ、このお店で有名なんですよ。ご自分の世界にいらっしゃるんでしょうね」「そうですか」


あれ、誰もが自分の世界に棲んでいる事に違いは無いのだが。余り滅多にしない違和感を与えるやり方、という意味なのだろう。少し考える。するとその解説をしてくれた女性をステキだと思った。彼女を受け入れているからだ。タオルの会員さんは毎日入店して脱衣し、この風呂のこの片隅に座ってお仕事をされるのだろう。とても気に入ったやり方であって心が落ち着くのかも知れない。


それはそれでいい事だ。
ひょっとすると自分だって気付かずにしている違和感を与える生き方を、いつのまにかどこかで他人が受容してくれているのかも知れないですしね。
今日行ったPC仕事に関しては別途記載します。
(おわり)
12月30日(木)

こんな一日だった。
朝起きて昨日の残りのコーヒーを飲む。犬の散歩に行く。エサをあげる。会社が休みに入った家族がいるので一緒に朝ご飯を食べた。パンを切らしていたのでパンケーキでも焼こうと思ったがミルクも無い。ポッカリポテトを4枚焼いてベーコンを添える。自分はまたコーヒーを飲む。今日の予定を話す。その後二階に行きメールをチェックする。来年の外出の誘いに関するものが一つだけあった。それから今日自分の予定といったらスポーツクラブに行くとこと位だから、それは何時でもいいな、と思った。その前にやりたい事をまとまった時間を費やして済ませたいと思う。


小説のリライト。一人称に書き直してみた。たった数ページ分。
でも実際それを初めて、そのやり方はあまり面白く無いので止めた。
もう一つの仕事の方に切り替えた。
相手さんのメールをドキュメントに編集する作業の続き。
昼過ぎまで行った。
機械的な仕事だから。
家族が帰って来たので、自分はスポーツクラブに行けると思った。けれど、2本目の途中だったので急いでもう半時間程行った。それから買物用のママチャリに乗って中目黒に行った。いつもの店が年末で休店なので、相互利用出来るのだ。


昨日もそこに行ったので、要領を得ていた。何気なく手慣れて振りでチェックインした。プール、ミストサウナ、風呂に入った。低温サウナにいるとこんな会話を聞いた。
「もう高速回転してる。今日は露天はだから無理っぽい入るの」
若い女がもう少し年配の女に告げる。舌足らずの喋りだ。肌が褐色で髪がとても黒い。襟足の生え際が密集している。高速回転って何だろう。私も露天風呂に行ってみた。
(つづく)
12月30日(木)

2010が何か意味を持っているとしたら、引き揚げられた網の中の私の形骸がそれを語る。
一緒にそこにある少しの品々。映像作家の作品(『海岸団地』の杉本綾子監督や関口ユカ監督)だったり、スチールのモノクローム写真(『ラヴズボディ』)だったり、スカイプでのたった一回のチャット(よねみつさん)だったり、納骨の時の札幌の人々だったり。さらに書き切れない多くの人々。「出会い」はそれ程ある。どれも濃過ぎもせず。


人との「別れ」は薄いものは気付かず体験実感すらしない。気付くもの、それ程濃い。他者である自分自身をすら溶解する程だ。


2010の現実にそれが起こった(一番大切な人が亡くなった)けれど、まだ信じられない。でも私の(極々)一部分はもしかして変化した、と思う。


変化しない部分があり、それを宝物にしている。遺産、という単語はもっと当たっている。何かと言うと顔の筋肉や皮膚の運動、息のしかた、椅子からの立ち上がる動作、チャリを駐輪場から出して跨がるとき、料理を皿の上に移すとき、服を着替える、裸になる、ベッドで横になる、おしっこをペーパーで拭く、ブラウザに文字を打つ、すべての動作が遺産の中の記憶とつながっている。つながっていると強く意識する(平たく言うと、その人が現実に生きていた時に持っていた日常の意識を、亡くなった今でも継続する、という意味。生きていた時はこんな風に思いながら服を着替えていたなあ、とか)。


けれど変化は無意識の中に置く。そんなに深刻でない。変化も遺産も同じ私の裡のこと。でも自分の99.9999999999%を遺産の中に未だ納めていたい。2010年12月30日の午後0時10分には、相当そんな数値のまんま。
12月29日(水)

「あのKさんにお渡ししたいものがあるんですが」と私は開口一番男のスタッフに告げた。「あのこれ、ネットから出したジェームス・ディーンの写真、、」「ああ、そうですか、、まあいいですよ。後で渡す時にスタッフに言って下さい」「、、あの今いいですか?」いつものお話相手の方がお席に戻られていない。「いいですよ。、、、Kさん!」大きくはっきりした声だ。「、、、」


「ジェームス・ディーンの写真、こちらの方が持って来てくれました。ここへ入れときましょうか?」「、、、」私は手持ち無沙汰の極致だった。私の視線だけが居場所を探す。自然とKさんを見る。怒って膠着した表情だ。いつもは、と言っても過去の2、3回はそうでなかった。Kさんのこんな表情は初めてだった。この老婦人は、どちらかと言うと老いた男性を思わせるような無彩色が全貌に定着していた。それが今日はますます強調された。淵の薄い色の眼鏡を掛け、髪の長めな難しい高齢の男という風貌。そんなはずはない。彼女はだってジミーの熱い恋人なのだ。大好きなの、と前回言っていた。涙ながらに言っていた(じゃない!)。


だから、2枚のモノクロームの比較的大き目のポートレートが彼女のテーブルに敷いた透明ビニールの下に置かれた。ネコの写真が右側にあるカラフルな雑誌の切り抜きのようなものが手前にあったのを男のスタッフは勝手に上方に押し上げて、そこにジミーが居座った。
「Kさん、淋しい時はこの写真見るといいですよ」そのスタッフが言った。


何の反応もなかった。


私は彼女の隣に座っていいかをまず聞き、Yesという了解を得て、会話を続けた。「今日はいい天気ですね」とか。「お歌を歌われないんですか」とか。ジミーの話は特にしなかった。彼女が何か切迫した感情に行き先を封じられているように私には感じられた。異物が詰まっている喉。そんな時をかつて経験していた。


私を見ない彼がそうだった。


「Kさん、今日はご機嫌あんまり、、」スタッフが笑って私に言った。
「でもお歌歌ってくれましたから」「そうですか?」
そうなのだ。
実はその後、『あおげば尊し』を一回だけ歌ってくれたのだ。
本当はまったくその気は無かったのに、何か私のために歌ってくれたのだ。苦し気に歌った。


そんな事が、私の人生の中にもあった。
特別の友人さんが亡くなる前月の6月に、私のためにそうしてくれた、という出来事があった。二人ともが服も脱がずにそうした。それはまるで老弱して死に行く一頭のオスのサイが群れのメスサイに、そのメスはかつての自分の繁殖相手のメスのうちの一頭だったのだが、単にその証のためにそうした、という風だった(無表情と怒りだけを携えていた)。


そんなエピソードを私はそこでKさんに会う以前の、特養ホームに向うチャリのサドルの上で思い出していた。実際こんなに似た出来事が後で起こるとも知らずに。神秘的な事だ。
(おわり)
12月29日(水)

今日は何人かの新しい入居者さんと接した。一人は先ほど書いた、赤ちゃんを抱いた老婦人だった。立って抱いたままそこにいる。「可愛いですねえ」と私は擦り寄る。もう一人の入居者があたかも話し相手のようにすぐそばの椅子に掛けている。私を入れ女性3人だ。「本当に可愛いです」私はその人形のよだれかけを直し、オムツの股の部分が一方の脚の外側にズレているのを直した。「ああ、うん」とお母さんが言う。「ちょっと抱かせてくれますか?」私は気を遣ってその子を抱く。髪と頬を撫で、つんつんする。「すごく抱き心地いい」と誉める。「あんたも抱く?」もう一人に持ち主が言う。彼女は婉曲に断る。穏やかな関係だ。彼女は大抵一人で赤ん坊を抱いて自分の部屋の前の椅子に座っていたのを見ていたので、こんな光景は新鮮だった。長い間二人は話をしていた。赤ん坊の事とか、全く取留めの無い話題に決まってる。本当に「取留め」なんて微塵も無い。ただただ一緒にいる、それだけの事だろう。


それとは全く真逆の出来事もあった。
初めて接する入居者さんでお名前も知らない。睨んでおられる。瞬きもせずずっと私を。何故かと言うと、私に原因がある。
私は不用な事をした。
「こんにちは」「、、、、」「ここに座っていいですか?」
彼女は言った。「バカ」

私はそこに座った。
「バカ」彼女が言った。

私は笑って座っていた。
「バカ」彼女は爪を私に立てた。「バカ、アッチイエイケ!」

私は避けて会釈をした。彼女は睨み続けた。私はKさんの所に行った。やや遠くから彼女はやはり睨み続けた。大きく開けた両眼は丸い顔にマッチしていた。両眼は招待され、私は排除された。


リハーサルなどどこを探しても無い。介護の現場では。
100%が本番だ。
その意味は人生に於いて普遍なのだが、もし多くの人が「認知症患者の傾聴」というこの現場を体験しているとすると、人生の実際の現場は少し生き易いかも知れない。けれど考え様によっては、まったくその逆かも知れない。


何しろ私はお気楽なボランティアだ。ここがもし職場であるとすると、100倍ものストレスが掛かる。もし自分が家族という当事者であれば掛かるストレスは200倍を越すだろう。


そういう意味では、ボランティアは単に物貰いに過ぎないのだ、と思う。
(つづく)
12月29日(水)

「今年」がどんな風な笑い顔で私に挨拶するかなんてまだ想像出来ないけど、その前にちょとだけ見せた表情は「ご機嫌斜め」だった。仕方無い、そんな昼下がりを経験した。


特養老人ホームへの傾聴ボランティア。訪問した毎日すべてが大吉というワケない。今日は凶だったのか。皆さんのご機嫌が、、、。お一人目。私が必ずお相手する事になっている老婦人だ。挨拶した。その方は珍しく「起きていらした」。藤色の花柄のブラウスに同色無地のカーデガンを重ね、ズボンの中の両脚は2本ともとても細いのだろう。ペイルピンク色の水分を十分に含んだ皺で組み立てられた小さく上品な顔。片方の目頭に非常に小さな目脂が一個あった。語りかけると数秒間私と目を合わせている。「あたくしはかわっているんです。みなさんとあまりおしゃべりはしませんの」少しだけ顔を顰める。「だってひとのうわさでしょう」「あたくしそういうのはだめなの」

誰一人お喋りなどし合っていない。全員が大体は車椅子の中で眠っている。

例外的にたった一人だけ。いつも本物と見違う赤ん坊の姿をした人形を腕に抱いた婦人は社交的だ。スタッフの打合せの輪にも参加している。不思議な光景だ。背のあまり高く無いスタッフたちよりさらに小柄な一人の入居者が立ったままの輪に加わっている。その方の話は解釈するのが困難と言えなくも無いのだが、一応は加わっている。

私はなるべく一人の相手の方だけを向き相手の目を正視するようにした。
「あたくしはひとりでいるのが好きなんです」白髪が行儀よく丸い頭部をカヴァーしている。「でもここで努力してます」同意して頷いた。

「努力」という言葉が意外だった。かつてその言葉が深く心に刺さった記憶がある。「僕は努力してた。あんたが一回目にタイに来た。だからその間すごく努力してたんだ」それは感情のコントロールという難仕事を意味していたのだと思う。つい思い出してはそんな昔話は2秒後に忘れた振りをした。彼女を見た。綺麗な顔の肌だと思った。肌の全体が呼吸している。見間違ってはいない。

「お肌きれいですね」私が言った。
「何も塗っていないの」本当ですか、と私が続けた。びくりする事に私の母がその話題に触れた時と同じ内容の回答を、同じ態度を使って語った。自信に満ち堂々とした表情があった。しばらくするとそれは終わった。ビワが窓の外に成っていた話、「あなたの席はどちらなの?」という質問、「私はよくそこへ行きました。まああなたは未だ一度もいらしてないの?」という何処の話なのか特定出来ない話題が続いた後に、すとんと機嫌が悪くなった。

両掌をバンバンと叩き、スタッフを呼ぶ。「ちょっとお!」いつもの方法だった。車椅子のスットッパーを外して発進させる。廊下を一人で旅立つ。「あなたはもうあっちへ行って」というひと言を残して。数メートルで叫ぶ。「ちょっとお!」私は立ち上がり近づきスタッフを呼びますから、と彼女に言う。10分置きのトイレなのだ。

彼女は非常に上品なので、怒りは幾重にも布に包まれ、重力のある穏やかさに押し殺されている。怒りは現に一瞬も顕われてすらいない。悲哀と切なさがその後に彼女を支配している。それが「努力」だとしたら。

ビワを一緒に剥いて食べたい。
「ビワはお味は薄いでしょう。でも悪くはないわ」
そう言えばこんな話もした。
「あら、そっちの方もあたくし大好きなの」それはお酒の話だった。その時彼女は間違い無く透明な笑いの中にいた。
(つづく)
12月28日(火)

「Macをお使いという事でそちらを主にされたらどうでしょう?」
おお何と当たり前のアドバイスだ。Macはとっくに使ってますよ、当たり前じゃないですか! もう少しマシな事言ってくれ!


私の受付申し込み書にはこんな事が書かれていた。
①発券機番号 120番
②本日はどうされましたか? 診断・修理(他に商品引取、買取・下取り、処分依頼があった)
③メーカーをご記入ください Sony
④型番をご記入下さい VAIO PCG-4A2N

約款に関するサイン、日にち、Tel

〈問診票〉
いつ頃から症状が発生していますか? 数ヶ月前
お困りの症状を具体的にご記入下さい 動きが遅い(ホントは遅いなんてもんじゃない。クレイジーなんだ)
A いつ頃ご購入されましたか? 5年?
B お使いのソフトは何ですか? 、、WindowsXP、、、J まであるので転記はやーめた。
↑ここまでで結構です。カウンタに設置されている[申込書入れ]に本紙を投函して下さい。

預かり品(預かり時スタッフ記入) 本体、ACアダプタ、ACケーブル

30分後に再び来店。
「DVD機能が認識出来ません。メモリ大変少ないです」そう、そっちですよそっち。
「メモリを取り寄せして増やすと4万円かかりますが、その金額で新しいPCが1台買えます。DVD機能も問題ないPCです」そりゃそうだろう新品なら。でもオフィスの入ってないアレでしょう。それはそれとして。
メモリを増やせば問題は必ず解決するのか、と私は聞いた。旧式なのでHDの方だってわからないと答える。そこなんですぜ。おいドクターしっかりしてくれ。


そんな気にもなる。この担当者は若い男ですべてがローテンションだ。慇懃なのだが心が籠っていない(キット仕事が相当キツいんだ、もしくは薄給)。

結局は自分で考えた。結局は容量を削って行く作業プラス他店でも見積もりを取るという結論に落ち着いた。でも今日ここのクリニックに来たのは、来なかったよりは格段によかった、と一応は思ってみる。
12月28日(火)

家の奥はアパート形式になっており、入居者さんが三人おられる事になっている。ところがここの所ずっと二人。一部屋は退去後に次のお客様が決まらない。この状況は不況を背後にずっと続いている。退去後のリフォーム費用はたっぷり掛けても、敷金を見直し、家賃を数千円下げて、ペット可の中身にネコちゃんも入れ、広告を複数の不動産屋に出してもまるで決まらない。もう3ヶ月を越した。


そこへ不動産ルート以外からある情報が舞い込んで来た。


すぐさま思い出したのは、1ヶ月程前「母子家庭の母娘さんで何か区の関係で区内限定のアパートを探されているので見に行っていいか」という問い合わせが不動産屋からあった事だった。その件はお客さんの意向で結局契約不成立に終わったのだが。


色々な人がおられて私はその都度ざっと浅く勉強する訳だが。

どうのこうの言っても、やはり結論は費用なのかも知れない。

舞い込んだ情報も詳細をここに書く事は出来ないが、今までずっとその関係でネットをググっていた。

結論。世の中には自分に出来る事と出来ない事がある、という事がうっすらとわかっただけだった。
12月28日(火)

今年最後の通院、もしかしたら私の膝と鎖骨とかすべての治療に関して最後の整形外科通院が今日で終わった。それは受付の白衣を来たいつもの人に年の瀬の挨拶をした時、彼女がこう言ったからだ。
「永いあいだお疲れ様でした」
いやあ、このあんばいじゃま来ますねん、と心の中では思った(自動車修理工場みたいなもんですものね)。


買物でもなく犬連れでもないチャリはロードバイクなのでヘルメットを着用している。
それを転がしながら私はふと去年の年の瀬はいったい何をしていたのだろう、と考えていた。あれ、何も思い出せない。東京にいた事は確かだ。1月4日が母の命日なので姉家族と集まった事位は何となく覚えている。やはり物忘れ外来かなあ、その線が浮かぶ。今、当時の日記を読んでそれがわかった。


相手さんが年を挟んでアルコール病棟に入院していて、お見舞いに行ったり、掃除をしたり、病院で書いてくれた通し番号のついた大量のハガキを待ちながらポストのフタを開ける毎日だった。そう。どうして忘れたのだろう。
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どうしても忘れないと思う事を、ざっくと落ち込んだ活断層のように見失うなんて。
ごめんね。