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7月25日(日)

オペ。
一昨日行われ、見事に成功した。
鋼線を挿入する9ヶ月前のオペの際、麻酔薬の影響なのか悪心に苛まれ入院食を4回パスした記憶が新しい。今回も麻酔に敏感になっていた。ストレッチャーで処置室に送られ、点滴の麻酔をまず受けた。ぼうっと体が浮く感じで脳の中心から意識が溶けて行く。試しに両脚指を動かしてみるが、それは可能だった。バッドトリップだけは避けたいと考えていた。薬の機序効果に身を任せよう。吐き気は、たぶんそのお陰で、無かった。オペの時間も前回より短かったので、分量も少なかったのかも知れない。次に筋肉注射というのだろうか、鎖骨の周辺の数カ所に麻酔注射を打つ。執刀した主治医は若い男の医師でたった一人、看護師も一人だけだった。20分位で終わった。抜き取るのに、最後は大変な物理力量を必要としていた。が、痛みは無かった。その後もずっと、患部の痛みは無い。疼痛薬も処方されせずに、だ。


鋼線を抜くまさにその時間、私の脳内に楽しい幻覚があった。何匹かのトイプードルがカラフルなスツールや大きめの積み木や陶磁器の中から顔や尻を出し、剽軽に出入りしているのだ。その光景ばかりが数分間続いた。明るく眩しいステージで繰り広げられるプードル(精巧なロボットだったのかも知れない)のパフォーマンスを前に私の不安は和らいだ。一般的な多幸感とも違っていた。だが悪くない動画だった。


今、私の左腕には再び点滴がはめられている。医師とのやりとりでその方針が決まったのだ。さっき朝食の少し前に、昨日買ったチョコレートを病室内の患者に配った。健康な二人、よいお婆さん、わるいお婆さんの順に。お婆さんたちには口に直接入れた。パラマウントベッドの頭部を高くしてキーボードを打っている。ありがたい事に、このことについて病院側は特段注意しないようだ。
(つづく)
f0204425_20241866.jpg最初の晩ご飯と
f0204425_20254185.jpg最後の朝ご飯
7月25日(日)

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真逆なのだ。
そうではなく、、、、私がその不幸を招いてしまったのです、とまだ(その電話の時点でも、その後のアパートで数時間を二人の妹さん方と一緒に過ごした間にも、数日たった今現在でも)説明していない。


「兄の想い出の品を一緒に整理しませんか」という誘いでアパートに行った時、待ち合わせの時刻に私は建物の外の道路にいた。3、40分のその時間、立ったまま私は3人の人々に携帯メールを送った。
まず、AAの世話になっている友人、私の彼を知っている。一人のカウンセラー、同じく私と彼とを知っている。もう一人のカウンセラー、やはり私と彼とを知っている。私自身の相談員で彼女は彼とは2度しか会っていないが。


どれもが非常に短い同じ内容のメールだった。
「○○様、××さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りします。△△」
3人ともじきに、モバイルなので短い、しかし心のこもった返信を頂けた。


妹さん方との仕事は一段落して、犬を冷房を効かせた和室に4.5時間閉じ込めていたので、先に失礼した。その夜、私はAAの世話になっている別の友人にPCメールを送った。そして姉にモバイルメールを送ったのは、翌朝自分の入院するためのバスの中であった。


「可哀想だね、早死にだったね、、」と姉のメールが始まっていた。


「可哀想」
それが次に訪れた感情のすべてだった。


同時に次の別の感情が待ち構えてた。
「可哀想」という感情には「さみしい」という感情がしっかり縫い付けてあったので、それらは排除すべき、という意見だった。今のあんたに必要ない。「さみしい」とかそんな種類は。
そして「私のせいだ」100%そう、という考えがそれだった。
(つづく)
7月25日(日)

私は外部的にはまず、1人の人間、一階に住む「大家さんの親戚」と話した。構わすインターホーンを押しドアもノックした。
「あの2階の××さんの知人のものですが、、、亡くなったのですか」と私は聞いた。男の人が出て来てくれた。
「ええ、亡くなったそうですよ」
「いつでしょうか」
「昨日かな、いや一昨日かな」
「詳しい事は警察署にお行きなさい。教えてくれるでしょう」と言われた。


2人目の人間は派出所の警官だった。念のために立ち寄った。「刑事課という部署です」
午前9時だったが、私は馬鹿な質問をした。
「その、、警察署はもうやってますか?」「24時間営業です」とその警官が自信ありげに答えた。
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3人目は警察署の受付の警官。
「ここにはもういないと思いますよ」と冷たい言葉が私を打った。9時半頃だった。たぶんとっくに棺桶に入っていた。

4人目は自分の携帯電話でかけた福祉事務所のケースワーカーだった。
この人の高い声はいつもの明るさと機敏さを失っていない。私は一気に話した。
「ご心配でしたでしょう」最後の言葉で私は初めて泣いた。だから警察署のロビーが私だけのためにそこにあった。

5人目も自分の携帯電話でかけた札幌の姪御さんだった。
「今日中に骨焼いちゃうそうです」とその若い女性が教えた。携帯番号を教え伝言を依頼した。

6人目は家の電話でかけた斎場の職員だった。もう午前10時に近かった。
「こちらではわかりませんので」と言い、折り返しの連絡を約束した。
アルコールをたっぷり含んだ体がごうごうと燃えている頃だったのかも知れない。

7人目も家の電話でかけた葬儀屋だった。
「今、火葬が終わった頃だと思います」とやる気のない別の担当が説明した。

8人目は、家の電話に着信した本人の妹さんだった。
比較的長い電話だった。まず「ごめんなさいね」と言われた。真逆なのに、と咄嗟に私は思った。
私はこんな取り込み中の時間に電話してくれるその人に心から感謝した。

当の私の特別の友人は「よっこらしょ」と言いながら、その電話機のそばにある骨壺の中に入っていたのだろう。
(つづく)
7月25日(日)

キリシュナ鋼線を抜いた後の私の一昨日出来た鎖骨の空洞は、もともとは間充識というのだろうか、血液とかが海綿状に詰まっているだけの組織らしいので、また元に戻りつつあるのだろう。


心の空洞にもどんどんと、別の感情が詰まりつつあるのが分かる。例えば、その最初の段階でそれは「何も考えられないような衝撃」だった。何も考えられない衝撃の内容をここで具体的に書く事が出来ない。何ひとつ存在しないからだ。


片付けられ花束の置かれたアパートの部屋を見て。「あ、死んだんだ」と思った。それがそうだった。f0204425_1921347.jpg
「死んだんだ」
と多分私は口にした。
私の犬はその時、一緒だった(その二日前、散乱した部屋に入った私の犬はその時とは違い、盛んに鼻孔を活躍させ異臭を嗅いでいたが)。
(つづく)
7月25日(日)

なぜ耳栓かというと、おひとり、頭の怪我をされた老人がいて、私の部屋はすべて78歳以上の老人なのだが、1日目の夜のイビキがヒドかったからだ。その方は認知の障害を持っていて、自分の金銭の心配事や架空の人物への呼びかけや悪態を盛んに行っていた。職員も同室の患者全員もが手を焼いていた。私は夕方買って来たクッキーを一枚渡すためにカーテンを少し開けると、肩までの灰色の髪を広げて全裸で仰向けになっていた。


「ビスケット、一枚ちょうだいよ、誰か。お腹空いたわ。飢え死にさせる気?」と叫んでいたからだ。
クッキーをあげた後にしばらくして、その老人はまた架空の人物との対話を始めた。
「あなた宍戸さんに連絡してくれない?」
「あなたじゃ話にならないんだから」


そんな病室、要するに仲のよい精神的に健康な二人、普通の老人、極めて高齢のよい老人、悪い老人の5人と一緒であった。


嬉しい事に、肩に入っていたキリシュナ鋼線を土産に貰った。
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それは何の変哲も無い、その辺の工事現場に落ちているような物だった。この物体と私は数ヶ月感苦楽を共にしたわけだ。
その間に様々な事柄が起こった。もちろんキリシュナと私が出会う前も色々あった。けれどキリシュナが私から抜け、その数日まえに私の特別の友人が私から同じように抜けた。
(つづく)
7月25日(日)

オペが終了してから2日目だ。
もう昨朝あった院長の回診の時に、四角く分厚いガーゼは取り外され、半透明の絆創膏だけが患部に貼られている。右鎖骨の首寄り、そこから取り出した穴。皮膚が少し盛り上がっている。手鏡を入院患者用キャビネットの引き出しから取り出して、チラッとその箇所を見た。PCを今朝6時に息子がチャリンコで運んでくれたのでテキストを打つ事ができている。電気製品持ち込み禁止なのだが、この後は交渉次第だ。
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←私のベッド

コーヒーも手に入れた。昨日外出許可を得て、ミニストップでインスタントコーヒーの小瓶、クッキー、チョコレート、ドラッグストアで目薬を買った。


ついでに近所の盆踊りにも立ち寄った。
その混雑した華やかさを6人部屋の感じがよく仲のよい2人に話した。耳栓もそのうちの一人に渡した。外出するすこし前だ。その耳栓自体も息子に持って来てもらった。昨日の1便で。その使用方法がよくわからなかった。
外出した際に、そこで買いもしなかったのに店頭にある類似商品を手にしながら薬局の店員が教えてくれた。
「うんと細くするんですよ。空気を抜くように」オレンジ色の紡錘形の小さな物体が二つ私の掌にあった。(つづく)
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私のベッドの窓から見た風景→
7月23日(金)

瞼が肥厚している。唇が日焼けで荒れていておまけに軽い頭痛だ。入院の支度を終え久しぶりに自宅の風呂に入ると、湯船の内側に微量の黴があった。上がる前に浴室全体を軽く掃除した。


午前10時前後に来院して下さい、と言われている。
今回は鎖骨骨折後、施術されたキリシュナ鋼線を抜くオペだ。私は数時間後医師たちに弄ばれる。きっと苦痛を堪能するのだろう、私自身に向けられた医学に感謝しつつ。もう1、2時間ある。


何といい人たちだろう。
昨日の出来事を想い出していた。札幌からいらした妹さんたち。
「ごめんなさいね」と私に何度も言った。「しつこい位電話したの」本当にこっちこそ、、。「兄の最後に会えなくてほんとに辛いでしょう」「そんな、もう充分(生前に)見てますから」笑って答えた。私は外出しており、息子は固定電話には出ないという規則を自分の中に作っていた。一度、友人から電話があり、怖さを憶えてしまっていたので、それ以来その方法を採用していた。それを作ったのも私自身だ。


「とても綺麗だったの」「痩せてしまって、、」「そう。穏やかな表情で」「苦しんで、、いなかった、、、」「ええ、もちろんお化粧してその人が言ってた。どちらのお国の方ですか、って外人に見えたらしいの」「そうですか」「頭にお気に入りの帽子を被せて髭はトレードマークかしら。タバコを数本くわえさせたわ」数本も? 「お酒も、本当はダメなお酒だけど、飲ませて体にも掛けてあげたの」腕を振りお酒の瓶を振る動作をされた。私は頷いた。


「とても汚れていて」
シャツは心臓マッサージのために切り裂かれていたらしい。誰かが通報してくれた。たった一種類の外出。近所のコンビニに酒を買いに行く途中、倒れた。倒れていたのは、あのレジデンスのゴミ置場だろうか。コンクリートの立ち上がりが30センチほどある。私たちはかつてそこに座って休んだ事がある。何度目かの入退院の途中で「酒買いに行く」というのに付き合い、「疲れた、少し休む」と言って腰掛けた場所だ。あるいは違う場所、道路かも知れない。何十分か何時間そうしていたのだろう。苦痛は計り知れない。それはどんなに辛かっただろう。


運ばれた医療機関では、瞳孔はもう開いていたが心肺停止直前であったらしい。身分を証明するもの、たぶん運転免許証を持参していたので、警察は北海道のご親族に連絡した。「今直ぐいらしても多分間に合わないでしょう、と言われました」翌朝の便で到着された時には亡くなっていた。福祉事務所に連絡する用事があり、そこで私の話を聞かれた。「お付き合いされている方がいて心配されてるって聞きました」「ああ、兄ちゃんの部屋の壁にあった写真の人って思いました」その満面の笑みで頬に熱いキスをされている人は元カノさんだったので、初対面で私たちが会った時に、すぐその話をした。「写真とはお顔が違う、ですよね」「ええ、違います」


死因を特定出来ないので、検査解剖をしたらしい。結果を知らされるまで2週間程がかかる。「病気を沢山持っていたものね。兄ちゃん」「、、、そうですね」本当にそうだ。知っていた。充分に知っていて、理解していた。健康な脳でそれを理解出来る人間がここにいた。


いま私の頭は完全に「たられば」思考になっている。
不毛さは、わかっている。
何と取り留めのない堂々巡り。無秩序で無益。
それより何より祈りなんて何の役にも立たなかったじゃない、って言いたい。でも、、AAの本が沢山棚にあって驚いた。その内の数冊かを貰う事にした。
「これお酒の本、、、いまさら読んでも」と私は苦笑した。その時、妹さんがたも同意したように感じた。
本当にいいご兄妹だ、と心から思った。

ご冥福をあらためてお祈り申し上げます。
(入院のためしばらく休みます)
7月22日(木)

「×××が死んだよ」
私はたぶん息子に言う。今午後6時で会社からまもなく帰って来る時刻だ。
「ふうん」そんな風に答えるに決まっている。


「息子さんは何歳ですか?」
双子の妹さんの片方が私に聞いた。今日の午後、私たち3人は咽せるように暑い友人さんのアパートで遺品の形見分けをしていた。本当はそんなキレイごとでも無く、靴履きのままダニに刺されながらホコリと格闘していた。でもいい。


「25です」
私は「サトウのご飯」を20パック位、それと故人の部屋用に飾られたお葬式の花束を頂いて帰る事にしていた。他に書籍とCDもあった。私が最後にプレゼントした引き出しとケトルもその傍に置いた。それらは後日私が出向いてどうにかして家に運ぶ。で、どうしてサトウのご飯と花かと言うと、ご飯はネズミに狙われ易いし花は痛むからだ。でもいい。


私たち3人は共通していた。沢山の点で。
掃除が好きで得意だった。働き者だった。一人はホテルのベッドメーキングを職業にしていると言った。そして友人さん、彼女たちにとっては兄ちゃんが好きだった。とても大切でひどく好きだった。でもいい。


途中で位牌をローデスクに置いてくれた。線香を3本折りライターで火を着けた。


家に戻って、数時間が過ぎた。
私は叫んだ。ただ叫んだ。
「ごめんね!」
心から叫んだ。
「本当にごめん!」
全てが私のせいで起こった。
7月21日(水)続

昨日は、そんな風に寄り道をし、マンションに着いた時刻は午後8時を回ってしまった。
犬に遅い食事を与え、自分は電車の中で軽食を取っていたので、テフロンパンで小海老を1匹焼き、白菜付けとサバランという変な食事をした。大変暑いので、夜中に犬のハアハアという息の音で目が覚めてしまった。


この場所のクーラーはリビングに一台あるのだけなので、寝室からそこに、枕を持って移動した。犬もその部屋の入り口の床ですぐに寝入っていた。


今朝は5時台に置き、6時の電車で湯河原駅に向かった。十国峠のハイキング道は多数あるが、湯河原の落合橋から入ったコースは川沿いであり比較的涼しい。そのコースを行くには湯河原駅に朝7時5分発の大丁橋行きバスが一日1本あるのみなので早起きをした。


頂上の笹の広場に着いたのはまだ午前9時だった。そこから十国峠ケーブルカーを使って降り、バスで熱海駅に向かった。サンビーチで途中下車をした。犬を砂に下ろすと、老犬特有の忍耐深さ(という表現を誰かの文章で読んだ経験があった)で硬直している。すぐにライフガードが駆け寄り「犬持込禁止」を告げた。何のことはない。犬のほうだって「ビーチは御免」なのだ。


今はひざに乗せて情報センターという公共施設でPCを打っているが、これだって見つかれば立派にNGなのだ。民間の人々(昨日寄ったリサイクルショップの店員さんとか、今日会った十国峠の売店のおばちゃんとか)がどんなに犬に優しいか、つくづく思い入るところだ。


優しさといえば、私は本当に自分勝手で冷たい人間だ。
相手がして欲しいことをしないし、して欲しくないことばかりしている。
たぶんそうだ。


だって昨日、気巧の準備体操で自分の腕をさすった時、まるで恋人(だった)人の腕をさすっているような(錯覚の)気持ちがした。どんどん涙ぐんでしまった。
もうそんなこともないんだろうと思う。
(あとで、写真をアップします)
7月21日(水)

昨日のことを書こう。

自分の入院前にもう一度神奈川の自分の場所に行く予定で、それが昨日だった。
いつものように、犬と紙袋に入れた中くらいに重い荷物をバッグの他に持っている。TVの気象予報では熱中症予防を告げている気候だ。最寄りの東横線の駅から渋谷に着く。そこから下北沢経由で小田急線に乗り、急行で小田原へ向かう。


下北沢駅のホームに各駅停車が滑り込んだ。
ほぼ同時に次の数分後、快速急行藤沢行きが到着するアナウンスがあった。



大変迷っていたが私は最初の電車を選んだ。
それは友人さんの住む駅にとまるのだ。
なぜ? どうして? 何のため?
地図上で考えれば、そこをそっくり通過するのだし、立ち寄ることは悪いことではない。
(電話が通じない、という理由)

ただ、ちょっと寄るだけだ。
何故?
もし立ち寄らなずに小田原に向かえば「知らないこと」が増えてしまうからだ。



荷物があり気温が暑く、早く目的地に着きたい気持ちを、特別の感情を帯びた意思に道を譲った。経堂駅からいつもの道を徒歩で行き、アパート用の階段を上る。呼んでみたが返答はない。


本人がそこにいない。
床に置かれた扇風機が一人で仕事をしていた。
何と表現したらいいのだろう。
、、、、、、巨大なごみ山の中に部屋がバラバラに溶けていた。
ごみは、、、、もし立体造形の作家にそのタイトルの作品を発注したら、それを納品するだろう。
特に灰皿、何百本の吸殻。どうしてそんな形を維持できるのか不思議な積み上げ方を示していた。


本人はそこにはいなく、、、。
一度道路に降りてから、念のため共同のトイレとシャワー室も見た。
本人がそこにいないという想定はなかったのだが、それは最悪のものより優れていると私は考えた。


「知らないこと」は増えることはなかったか?
そうではなく、「知っていること」が存在し、あらたな「知らないこと」が増えて行った。
少なくともそれらの結果を導く行為はすべて自分で決めたことだった。


小田原に向かった。
(つづく)