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7月28日(水)

ゆうパックを受け取る用事で真鶴という場所に犬と1泊で向う。


昨日、その土地の知り合いに電話するとこう言った。
「あら、9月までいらっしゃらないのかと思ってたの。やっぱりお祭り見にいらっしゃる事にしたの?」
「、、お祭りなんですか?」
「? そうよ。今日と明日。時間? 6時から通行止めになるらしいわ」
ちょっとした用事を彼女にお願いしたかったのだ。


で、そのゆうパックの中身は何かというと、故人の本とCD、缶詰、写真。古本屋で買った¥100という鉛筆書きの文字がある文庫本とかコピー版ばかりが少し。装丁本(BigBookの原書とかも、、)の入ったバッグなどは「わけあり」清掃業者の作業によってしっかり処分されてしまっていた。LeeのGジャンとワインを入れる藤製バスケット、チェスのセットなんかも、、、。でもモノはモノだ。


形見分けの時私は妹君にこう言った、CDを数枚手に取って。
「こんなの私がもらったら、きっと(本人に)怒られる、、」
「そんなことないです。どうせうっちゃっちゃうんですよ」
「私、誰々(歌い手さんの名前)しか聴かないもの」双子のもうおひとりが明るく続けた。


その日の私は、自分でなかったので、何も考えられなかった。


今だって似たようなものだ。


「あんた、おばあちゃんが死んだ時より落ち込んでいるな」数日前息子が言った。


読者の方がコメントで私の投稿をそれほど「不快ではない」とおっしゃって下さりありがたいと思いました。
7月27日(火)

夕刻、ある方のハンドフリーのモバイルが私のドコモ回線とつながった。
「死」を持って示したアルコール依存症者が、彼(彼女)の家族や恋人へもたらす苦悩について。


そこで話されたことはここで詳しく書かない。
一カ所だけ、もっとも気になった部分を振り返る(その電話で答えた内容と多少異なる部分や付け加えた部分もある、と思う)。


・ Q 相手に対して「悔いのない世話を焼く生き方」をしていたあなたがこの1ヶ月なぜ、その方針を変えたのか?
・A一杯一杯になって来ていた。もう少し距離を置く方が正しいのではないか、と考えた。しかし、同時にそれは、いつ死んでいるかがわからず終始不安であった。

・ Q「一杯一杯になる」とはどんなことか? 
・ A 私自身に興味を示さなくなった。人間らしさを失って来ていると感じた。以前から私への愛情はあまり感じなかったが、暴言暴力を含めアクションはあった。だがそれがなくなったのは病気が進行しADLその他が急速に衰えたからなのだ、と現在は考えている。

・ Q なぜ病気が重くなったと判断できるのか?
・A「私自身に興味を示さなくなった」という判断は誤りだった。振り返ると、大変微弱にそのメッセージやサインを発していた。それが微弱であったという根拠は、たった一言で終わってしまっていたり、声が小さいなどであった。
具体的には「君に部屋を掃除して欲しいとは言わないが、ただ君に会いたいんだ」「週末は君の別荘に行って、ただ風呂に入りたい」と電話で弱々しく告げたのに私は「用事が決まらないの」「本当に? 駅まで歩けるの? お酒も飲むの?」「ごめん部屋が汚いから遊びに行けない」などと答えて応じなかった。それらを非常に後悔している。


電話を切った後で私が思った事。
付き合い出して間もなくの頃、素面の彼は私にこんな喋り方をした。
「こんな僕とあなたは付き合えますか?」
また、違う時に。
「だって精神病だぜ」
そして、まるで「死」の予行演習のように一方的な別離を繰り返していた。
「一番怖い別れ方をしてやる」と言い、何度何度もその通りにした。


丸ごとそれらを許して、一緒に生きて行こうと思っていた。自分自身だってまったく問題が多い。お互いさまだ。一生で一度、初めて深く愛した相手だったから。
ある一人の人間との霊的なつながりを信じてよいのなら、私は一週間前に亡くなったその男を真っ先に選ぶ。
7月27日(火)

午前4時半に目が覚めた。
洗顔や着替えをした後に、階下で皿をしまったりクッションを整える。犬の散歩から戻り簡単な料理を終える。朝食やその片付けが7時前に終わってしまった。郵便物を整理しながら今日の予定を考えた。区役所の福祉の窓口に行き、ワーカーに会う。この間の出来事に関する挨拶と、それから何か別の事も教えて貰えるかも知れない。9時少し過ぎに会えた。


アポ無しの失礼な訪問であった。5分程、無理な時間をいただいた。
「私は△△さんの方が寧ろ心配です」と言われた。恐縮してしまう。
頬と胸とで合計3kg痩せただけでいたって元気だ。


成城石井で買物をする時、チーズ売り場があった。
チーズ売り場では、どうしても足が緩慢になり、動悸が逆に早まる。


「チーズだけど、、、どう買う?」
声に出してみた。非常に不自然でたどたどしい。
けれども続けて発声していた。
「チーズは家にあるの」
心の中にその人影はまだ存在しない。
母の時だって、それは随分してからだった。
合掌
7月26日(月)

お香典を郵送し、電話でご親族と話すと「もっと早く知り合っていれば」と言われた。私もそう思った。それも私の過失だ。
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業者が片付けを終えたアパートの部屋は、壊れて開いたままの建具が何カ所も風に揺れていた。液体で複雑に変色した古畳。愛着すら感じた。ベッドのあったはずの場所。


大家の親戚に合い鍵を返した。そして、ゆうパックを送る仕事。妹さんが友人に送った缶詰類。兄ちゃんの食欲の足しにしてという「優しさ」を私が頂戴した。


帰り道、緑道を抜けると一人のホームレスが尿の強い臭気を発していた。とっさに友人さんの懐かしい残り香を思い出した。それはもうどこにも存在しない。
合掌
7月25日(日)

この数日間の出来事を書き終えた。
心配されている10人の人々をリストアップしていて、その方々と連絡を取ろうと思っている。
そのうちのお2人は、このブログを読んでいただくことをお願いしようと思う。最後の一人、実は私自身だったので、後は7人の方々だ。

・福祉のケースワーカーさん(たぶん電話)
・カウンセラーAさん(新たに予約する)
・カウンセラーBさん(予約が近日中にある)
・故人の妹さん(お手紙)
・BBFの方々(mtg)
・病院家族会の方々(mtg)またはケースワーカーさん(電話)
・私の姉(たぶん電話かメール)

そして、幾つかの残された仕事。
・お香典を急いで現金書留で送る
・故人のアパートに行き、残してもらっている荷物を宅急便扱いにして運び出す。合カギの返還を行う
・それを別荘に居て受け取る
・整形外科の再診を受ける(1w後)
・整形外科の抜糸を受ける(2w後)
・日弁連の交通事故示談相談の予約と本番
・カウンセリング×2回


この中で、アパートに向う仕事が最もタフなものだ。ゆうパックの料金調べで、相手の〒番号検索に地域名をクリックしただけで、もう胸が潰れそうになってしまった。
「おーい、だいじょうぶか!?」って声かけてください。
「うん、、、」と私は答えるよ。

だから、、、本当に本当にごめんなさい。
7月25日(日)

入院は何故この日なのか。手術を受け、予後の処置を継続する。そして私は健康体を取り戻す。


夕方にオペが終わった時、彼は私の寝台にいた。一晩中そこにいた。
「そうしなさい」静かに彼は言った。
「あんたは、あんたの人生を生きればいいさ」
一片の真珠のような光が彼の目に宿っていた。
「××は?」私が聞いた。
「俺は、、、もう、いいさ」と言って笑ってくれた。
だから一瞬だけこの問題は姿を消し去ったふりをした。そのように思えた。


「あんたとは結婚しないと思う」
「息子と二人で生きていけばいい」
そんな言葉に蒼ざめた過去がもう立ち去って行った。


「、、、いいよ」と言う声がした。
「もういいよ。終わったんだ」
「終わった、、、」


「こっちへ来なさい」かつて、そう言って私を抱いてくれた。
それが彼のやりかただった。


そんな特別の友人に対して、、。
何時も私は曖昧な親切心を用意していた。怒りや失望した表情を、最も遠くの位置に設定しているつもりだった。最後にしかし私は彼に対して、失望だけを叩き付け、そして最も必要なことを怠ってしまった。


そんなことを私はしてしまった。
私はだから、今はTVのニュース報道でよく見る、黒っぽいコートを頭から被って刑事に連行される被疑者に似た心の姿をしている。
(おわり)
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7月25日(日)

この1ヶ月間で何が起きたか。


私がお揃いの指輪と腕輪の両方を外していた。


その1ヶ月の直前の週末とそのまた一週間前の週末を連続して私の別荘で過ごした。1泊と2泊。海に近い場所と、山の家の順で。


特段のケンカも無かった、合計で5日間。どちらかと言うと従順で大人しく、空虚そのものだった。つまり無感動で人間らしさを失い始めていた。視点が定まらず、俯き加減でいた。私の用意する食べ物や注文する料理や酒を飲んで、少し食べた。
心の低い場所に、常に静かな怒りを抱えていた。


触ってはいけない表皮を纏っているかのように、私には感じられたので、落ち着かなかった。私に対する無視に近い態度がそれを顕していた。私たちは現実に一緒にいたのだが、地球の裏側程離れていた。何も分かち合えなかった。


私自身の態度は、当たり障りのない会話と、控え目な愛想だった。
親蜜な行為について、仕方なしにジョークの中に隠してみたり、それとは逆に大胆に口に出して言ってみた私は、結局たった一人で敗退して行った。



最初の場所ではこう言った。
「昨日、あんたが夜中に迫って来たけど、俺は拒絶した」そう言って苦笑した。
二つ目の場所で私たちは愛を交わした。


朝。とても短い時間に。
たったそれだけの行為を。間違い無く彼自身がそうした。
ボロボロの体で、それを試みた。

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愛している。
そうしてくれた事は特に、、、そしてそれらすべてを。心から。
(つづく)
7月25日(日)

相手の「死」は、たいてい予期せぬ乗り物に乗ってやって来る。まったく予想外の服装で。大抵の場合、突然に。

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「心の準備をしておきなさい」とH氏はかつて言われた。それがどういう意味なのか。私は真面目に考えていなかったという訳では無い。


「私は死ぬのよ」と末期がんの母は何度も私に向って言った。
「ねえ、あんた聞いてよ。だって私はこれから死ぬのよ」と。
相手から直接そう言われた場合ですら、私は「心の準備」の着手を怠った。


彼は「俺はこれから死ぬ」とは言わなかった。
その代わりにこう言った。
「入院はしない!」
同じ意味に聞こえた。
入院は絶対にしないという事は、死ぬまで酒を飲み続ける事で、結局は死ぬという宣言だった。
(つづく)
7月25日(日)

翌日になっていた。
2010年7月24日 午後4時30分
あ、これは元カノさんが亡くなられた時に、彼自身がそう感じたのとたぶん同じだ、と気付いた。


そして、もし彼の置かれた状況が、私自身の老いた母であったら、私はそうしただろうか。決してそうしなかった、と思う。部屋を片付け、体を拭き、着衣を取替え、水を飲ませ、粥を口に運んでいただろう。
暴言も暴力もすでに消えていたのだから。
私はどこかが麻痺していた。


アラノンの教義とか保健師の言葉「距離を置きましょう」という大合唱。BBFのメンバーの個々の意見「私はなるべく訪問していない」がじくじくと支配的になっていた。「それよりもご自分の人生を楽しむことです」だなんて! 今となっては言葉がない。


結局、私は「彼の愛が自分に対してあるかないか」ばかりを考えていた。


真実の重みは、それ以上のものだ。


距離を置くのがよいか悪いかは個々のケース(の病状)によるが、私の場合それは誤りだった。私の、6月中旬から7月中旬の最後の1ヶ月間において。それは今まで知っていたどの1ヶ月間(つまり、付き合っていた5年間をバラバラの1ヶ月間に区切って比較した場合)とも違っていた。「死」がたぶん既に死亡時刻を設定し、カウントダウンの赤色のデジタル数字が毎秒減って行ったのだ。電子音もまた響いていたに違いない。私は気付かなかった。

母を亡くした時も、全く同じだった。

鈍感な自分であった(しかし不思議な事にサインがあった。7月20日の日記に書いたとおりMacのブラウザにあるドッグのアイコンに白抜きの「1」という数字がバグって現れ、そして静かに消えた)。


母は治らない病だった(高齢で、クラス5の肺ガンだった)。
彼のそれは違った。

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人生の残りは長いとかつて私がメールで書いた時、それに反論した。
「俺はそうは思わない。あんたと付き合って、それを無駄にしたくない」と言った。


人生は誰にでも平等な長さがあると私は考えていた。しかし現実には平等である場合と、そうでない場合がある。(つまり「彼の人生が短い」と私が思うとそれは「不平等だ」という事になる、という程度の意味だが)
(つづく)
7月25日(日)

時間を後回しにする。
オペが終わり、病室に戻りその部屋でうつらうつらする。もう80%は寝入っているのだが、この「眠くてしょうがない」という感覚は、通常の生活で感じる「眠さ」とは幾分異なっていた。命令受けて服従しているような「眠さ」だった。マッサージの先生が病室に来て会話したり、人々の会話、まるで何を喋っていたかは記憶に無い、が聞こえていた。夕食の少し前にそれが去り、食欲が戻っていたのに少し驚いた。前回はそうではなかったから。デジカメで夕食や、自分の姿なども撮った。
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気分がよく、息子に手術の成功をメールした。
ノートとボールペンを取り出し、今感じている事を書きつづった。

こんな内容だった。

目を閉じると様々な情景が流れる。
タイ国で二人乗りのスクーターを運転する。タンデムで乗っている時に抱きついている最中の背中。本当に時たま、私が大好きな表情である振り返った時の眩しい眼差し。
一転して、最後に見た時の散らかったアパートの部屋。私自身に科される過失責任。「保護責任者遺棄致死」という言葉がある、と考えた。

××病院に何度か入院していた時の、D52精神科病棟。階段を上がった時の食堂に現れた姿、パインという名の喫茶店で面会した。毎日のように。その時の眼鏡の奥で笑った。

少しは健康だった頃なので、そう出来たのだ。
しかし肩を落とした後ろ姿もあった。ホームで別れ際、私が冷静な一言を言った時がそうだった。小旅行の帰り、残り物の食糧品の入ったレジ袋をぶら下げていた後ろ姿が目に焼き付いている。

けれど、その時はまだ生きていた。そうだった、血液が巡り、細胞が水分を含み呼吸していた。


ナイフとフォークを使い器用に上手に料理を食べ終わる。本当に綺麗に。最後はパンでソースを拭いて「ごちそうさま!」と言う。あの大きな声が大好きだった。
それが最近は変わった。すっかり掠れた小さな声に。


私が電話をすると決まって「どうしたの?」と聞く。それから「ほれ!」と言って片手を出してくれる。そして私たちは手をつなぐ。若い子たちと同じように。


キスをする時は、大抵は私がそうしたいという表情や動作をする。その1秒後に彼は目を閉じ、僅かに首を上げる。すると私はいつも必ず神聖なものをそこに感じてしまう。彼は一瞬だけ唇の力を放棄する。その後、強さや長さを彼自身で決める時が多いがそうでない時もある。キスを沢山した。その事に感謝している。そんな事を術後の私はつらつらと想い出していた。ノートは続いた。
(つづく)