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1月31日(日)続々々々

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいた相手〉私の残業を信用しなかった母親

〈その理由〉私が公務員を早期退職した理由のひとつは、最後の職場が自宅から遠く、残業と休日出勤が多かったからでもあった。その時点では、さすがにこれから書くような行き違いは解消されていた。その行き違いとは同じく公務員であった私の母親が「公務員がそんなに仕事が忙しい筈は無い。ましてやあなたは女だし。残業とか言って、遊んで来たんでしょ」と疲れて深夜帰って来た私に何度か言った事であった。時代が異なり、行革の波もあったのに、はなから私は信頼されていなかった。

〈傷つけられたもの〉「自尊心」であった。

〈自分はどこで誤ったか〉少し冷静になれば、どうという事のない誤解であった。よって私の「配慮のなさ」が関係性を阻害していた。
1月31日(日)続々々

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいた相手〉私の就職に口出しした母親

〈その理由〉私の最初の就職先は自分で見つけたデザイン事務所であった。そこは昇給もなく、健康面で問題があるという結論を母が下し(それ以外の重要な要素として、私の自分で認識した、才能の限界性もあったのだ)、転職を指示した。公務員試験の年齢制限ギリギリの段階で、受験するような手筈を整えてくれた。

〈傷つけられたもの〉私はその件で母を恨んでいない。なぜ、ここに書いたのかというと、言いたいのはやはり、どれだけ私が母に依存していたという点である。

〈自分はどこで誤ったか〉恨んでいないので、この場所は非該当であると思う。
1月31日(日)続々

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいた相手〉息子の養育に干渉した母親(1)

〈その理由〉実の母娘が内孫の養育方法で口うるさくしたり、それに反論するケースなど、ありきたりかも知れない。けれどウチの場合、その干渉レベルが少しだけ高かった。例えばある日、何かの急病で私と母が息子を連れて病院に駆け込んだ時であった。生後10ヶ月くらいの赤ん坊を私は大雑把に診察台に載せてしまった。すると、赤ん坊がガタンと床に落ち、火がついたように泣き始めた。母が「あんた、何やってんのよ」と赤ん坊以上の剣幕で私を激しく叱った。やって来た看護師がビックリして私に言った。「この家はおバアちゃんの方がエラいんですね!」


〈傷つけられたもの〉「自尊心」であった。


〈自分はどこで誤ったか〉一回ごとに「恐れ」が生じて、度重なった。しかし、その後の修復は自然な形で行われた。小さい子どもであった息子が天使のように振舞い、3人の間の和解や幸福をもたらしてくれたのだった。
1月31日(日)続

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいた相手〉(10代〜20代)私の交際に反対した母親

〈その理由〉若い私にとって、自分のボーイフレンドとの交際に母が頭から反対した事は、楽しい記憶ではない。信じられないような話だが、例えばこんな出来事があった。家に遊びに来てくれた彫金家の友人を私がバス停まで送って行った時であった。彼が私の長い髪を撫でていた。後ろからわざわざ母が見に来ていた。「あんたたち何やってんの、あそこで」と後で私を責めた。また別の日に同じ彼が家に電話を掛けてくれた時であった。母は私の声色を真似て、「『私はもうあなたと付き合いたく無いわ』と言った」と私に説明した。姉に関する、これに類似した母の行いは、その何倍も大掛かりなものであった。自分の好まない相手との交際を頭から許さず、実力公使で「解決」した。姉は大変傷ついた。少なくとも私の場合、母に相手を紹介する事は、それ以来めったに無いようにした。以降は、自分の目の行き届かない場所で娘たちは一体何をしているのか、という話になったわけである。


〈傷つけられたもの〉「自尊心」と「人間関係」の二つであった。


〈自分はどこで誤ったか〉最初のケース(過干渉)では「恐れ」で、後半のケース(秘密にする)では、「不正直」がもっとも該当する。
1月31日(日)

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいた相手〉(私が小学生であった頃の)誉めてくれない母親

〈その理由〉私が子供の頃、母は勉強以外では私を余り誉める事をしなかったように記憶している。小中学生で成績が良い時、体育以外はたいていそうであったが、それは表面的な賛美のように思えた。強い情動で愛されている記憶が薄かった。そこで小学校低学年であった時の私は「胸が痛い」という仮病に似た症状を訴えて虎ノ門病院の小児科に(何年間も!)連れて行ってもらっていた。母に身体的な心配を掛けることで愛情を感じたかった。殆ど仮病に近いという後ろめたさを自覚しつつも、呼吸するとあたかも痛みを感じるので、それを自分の中でよしとした。


〈傷つけられたもの〉親子の絆を「人間関係」と表すと平凡な風にも感じるが、それ以外の項目では「性の関係」かも知れない。私は両親のセックスによって授かった。母は父を尊敬し、子どもたちの前でそれを常に言葉で表現した。「パパは素晴らしい人間だったのよ」「まるで神様みたいな人だったの」同時にこうも言った。「あんなに素晴らしい親なのに、どうしてあんたたちはダメなの?」先に書いたように、1歳の時に死別した父親の記憶を私は持っていない。母の思考と感性を経由して私は父を一応はリスペクトした。けれども実際の姿はそこになく、つまり父、祖父、兄、弟、叔父といった一方の性との触れ合いの経験値を身近に欠いていた。母は、どちらかというと私に対して父性をかざした。その代わり、本当なら包み込むような無条件の愛が欲しかった。


〈自分はどこで誤ったか〉自分がどこで誤ったか、、、。傷つけたリストに書こうと思っていた「仮病」は、実際のところ、母親を騙し傷つけたのだと思う。私は確かに小さな子どもであったが、「配慮を欠いていた」。それは延々と続く。自分に向けた愛情が希薄だという訴えは、仮病をはじめ日々彼女に辛く当たる事で報復していたのかも知れない。それに自分こそ、彼女に愛を向けなて来なかった。その事にたった今、気付いた。末期がんで亡くなったのは、1月のこの季節であった。彼女の3回忌を終えたこの時期に来てやっと、であった。ただし、、、、例外的に私を誉めてくれた時が2度あった。心の底から嬉しかった。それは、苦労して協議離婚が成立した時と、様々な理由から早期退職を行った時だった。「頑張ったね。よくやったね」と言う意味の言葉は重く、また嬉しさは心の中からずっと消えない。
1月30日(土)続々々

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいたもの〉母親の遺伝子(身体的な因子)

〈エピソード〉
1.私が小学校高学年のとき、風呂かなにかで母の前で裸になっていた。心臓の位置と関係して、誰でもそうであると今では思うのだが、その頃から左の乳房が右のそれより少し大き目であった。その事実に関して母はまったく別の言い方をした。「あんた、右利きだから左のオッパイを揉んでるんでしょう? だからそっちが大きいのね」驚いたので何も考えられないでいた(もしジョークだったとしても、、、)。


2.中高生の頃の姉と私は顔つきも体型も人が間違える程に似ていた。姉の胸を良く見たことは無かったが、ある時チラっと目に入った。それが自分よりは人並みに大きかったので、何故だかわからないが「よかった」と思い安心した。


3.結婚していた時期に、前夫は私の身体的な欠陥に触れた事はまったくなかった。しかし、ある時私が掃除を終えて、彼の机の上に雑誌の「豊胸手術」広告のとても小さな切り抜きがあるのを見つけた。私はそれをそのままの場所に置いた。彼はそれに気付いて、大変慌てていた。その事に関して、どちらも一言も語ることは無かった。偶然にしろ「悪い事をしたな」と私は思った。


4.妊婦であった私は、自分の胸が2倍程に大きくなったような気がして嬉しかった。私のその写真を撮って欲しいと前夫に言った事があったが、そうしてくれなかったので少し淋しかった。


5.ごく最近まで付き合ってくれた友人は数年前「君の薄い胸が好きだ」と綴ったメールを送信してくれていた。「薄い胸」という表現! それ以来、私は自分の体を嫌悪することが少なくなった。
1月30日(土)続々

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいたもの〉母親の遺伝子(身体的な因子)

〈その理由〉遺伝子の特質による自分の体型を恨んだ。胸が小さい事は、母親似であった。

〈傷つけられたもの〉もし胸が大きいか、少なくとも普通の大きさにあれば、自分の人生は180度違っていたと最近まで思う。思春期には性格までも規定する深刻なことがらだった。性の関係での非常に大きな恨みであった。

〈自分はどこで誤ったか〉神の領域であるとは分かっている。今風に捉えれば美容整形もあるのだろうが、全く意識にも上らなかった。私は一生結婚相手を得る事は不可能だと思っていた。異性と単に付き合う事を考えた場合でも、男の前で服を脱ぐ事など不可能だと思っていた。もしそんな事をしたら、二度と会ってくれない羽目になる。容姿に関しては、いわゆる身体障がい者に近い感じ方をしていた。

生物学的に考えた場合、生殖や繁殖を目的にかなった年齢的な範囲で、人は真面目に自分の性を商品とする時期もあるかも知れない。それは現実であるが、同時に全てではない。なぜなら人格的な資質とは離れた場所にある価値体系だ、と現在の私は思う。また、セックスは愛にもとづくのであって、快楽そのものや、自分の絶対的な価値の在処では無いと考える。その事を、ずっと分からなかった。残念ながら、快楽すらも私には遠いものであった。当然、愛にもとづく行為である。そう考えると、永遠にそれは私の手の届かない位置にあるのかも知れない。つまり、その事で母を恨むような人間であるとすると、必然的に愛も遠のいてしまっている。

うまく説明できないのだが。
(つづく)
1月30日(土)続

ステップ4(恨みの棚卸表)

母親の遺伝子(その1)続

〈傷つけられたもの〉そのように子どもの頃の時点で自分の性格が植え着いてしまった。もしその考えを今から変える事ができるとすれば、自分の人生は180度違うのだろうと思う。「人間関係」の悩みであったが「性の関係」でも影響を持つ恨みだったのかも知れない。


〈自分はどこで誤ったか〉このような幼少年期を経験した私は、それがバレたら(=そう言う態度を相手に顕したら)真の友達はおろか、結婚相手を得る事などは不可能だと思っていた。つまりそそれはまさに「恐れ」であった。同時にまた、この恨みの原因は自分自身にある。にもかかわらず、長い間、母の遺伝子という外的なものに転嫁しているだけであった。現在私が抱えている他の「恐れ」を克服することとは、同じ「恐れ」であるという意味で、ここでつながっているのかも知れない。


〈エピソード〉
⒈.小学生の私は、休み時間に校庭で遊ぶことは無かった。いつも教室の窓か、給食の用意があって教室に残ることが出来ない場合は廊下の窓から、外を眺めていた。高学年になったある日、いつものように廊下の窓にもたれてひとりで外を見ていた。そこからはは学校の敷地の一部と隣接する公道や家屋が見えた。白い衣類のようなものが、その裏の学校敷地に落ちていた。女子のパンツだと誰かが言った。私はたまたまそれを「感慨深げに」見ているあんばいにあったので、誰かが「○○さんのパンツなの?」と私に聞いた。私はちゃんとパンツを履いていた。まったく自分とは関係がないのに、とても恥ずかしい気持がした。そのように廊下の窓から外を眺めている自分が嫌でたまらなかった。


2.小学生の時、自分の家が母子家庭であることを、恥ずかしいと思っていた。父親がいない、イコール貧乏という偏見を受け入れていた。その時代は誰もがそう解釈し、事実私の家は決して裕福ではなかった。ある時「○○さんの家はボロボロ」と言われて、学校から泣いて帰った事があった。


3.中学校での私の交友関係は、いわゆるクラスの「吹きだまり的な」少女たちであった。その中に私と同じく感情をコントロール出来ないC子ちゃんがいた。彼女は家でどうであったかは知らないが、学校でも何かがあると時々自失し泣きわめいていた。それを見て、自分はそれよりマシであると思い安心したり、時には自分自身を同時に心配したりした。
(つづく)
1月30日(土)

ステップ4(恨みの棚卸表)

〈恨んでいたもの〉母親の遺伝子(感情面の因子)

〈その理由〉遺伝子の特質による(と信じていた)自分の性格を恨んだ。その性格は母親似であったからだ。私は生まれてからずっと大変虚弱な体質で3歳に大病をして、その前後もずっと母親に健康面で心配をかけてきた。精神面では極端に内向的であった。幼児か小学校低学年の時に、いきさつは不明だが児童相談所に連れて行かれた記憶がある。外では非常に大人しいのだが、家では大変わがままであった。中学生のとき反抗期を迎えた。何かが上手く行かない事があると、かんしゃくを起こして怒鳴り泣き叫んだ。そのやり方は、生得的に母親似であると自分では考えていた(大人になった後で、その話題を持ち出すと、母はそれを否定する)。もし友人に、家での私のヒステリーが知れたら、死ぬほど恥ずかしいことだと密かに心配していた。「そんな性格じゃ、一生結婚なんてできない。興信所が調べに来たら一発だよ」と母は言っていた。

母の生い立ちは、数の多い兄弟の末で、大変な貧困と薄幸の境遇で養育された。私の祖父は大酒のみでそれが原因で死んだ。祖母に対して母は尊敬していないように思えた。母は向学心が強く努力家。父と一大恋愛結婚するが衝撃的な事故により数年で他界される。1歳と3歳の娘を自力で育てる。養育態度は厳しく、神経質だが愛情は深い。それを「犠牲」という言葉で娘たちに伝えた。

母の交友関係は広かったが、それは内と外で違った態度を示していたからなのだと思う。なぜなら娘たちには横柄で支配的であった。私の思春期の時期から、母の晩年まであらゆる場面で衝突し、お互いを傷つけ合った。

子どもの頃から「あんたの長泣きはもう沢山だ」と言われていた。私は自分のこの性格(泣き出したら止まらない/怒りの処理が上手く出来ないなど)を自暴自棄的に抱えていた。母と姉だけが、その事を知っていた。感情のコントロールのいたらなさは、私の生涯の課題であり、その原因や結果はその都度、自分自身の落胆や周囲の人間への配慮の無さを生じてしまっていた。
(3列から4列については後につづく)
1月28日(木)

恨みのリストは、なかなか手強い。恐れのリストや、傷つけたリストの方はたぶんずっとスラスラ書けるような気がするのだが。「恨み」? 「恨む」? という習慣が自分の過去の中では薄い感じがする。自分自身をマイナス評価する、という習慣はたっぷりあるのだが、それは恨みという感情やら思考とどう結び着くのだろう? 

昨日書いた「母から私たちを産んだ事の後悔を言われた」内容は、本当に恨みだったのか?

実は、単純に傷ついただけだったのだ(だって現在の私は母を200%愛しているもの、恨みなんて!)。

うーん、視点を変えよう。例えば理不尽な扱いを受けるとする。先の母親の呟きが当時の私を傷つけたとする。それは一瞬の出来事であり、傷は自然治癒してしまっている。

ここで私は、JoeMの緑本を読んだ。「配慮の欠如」が問題への接近を妨げているという記述があった。そこではない、、、。次に別の箇所に目が止まった。「恨み、怒り」が並列的に書かれている箇所があったのだ。そうか。恨みに馴染みが薄い人は、怒りでもよいのだ、と分かった。

これで作業が進むような気がした。「傷つく」ことは「悲しみ」と「怒り」を招くのだから、つまり「どんな時に私は傷つくか、傷ついたか」でもよいと勝手に理解した。



吉報だ。その本には『初めて棚おろしに取り組む人のためのヒント』という紙っぺらが挟まっていた! 
恨みにつながる感情=不平不満、怒り、わだかまり、敵意、批判、気分を害する、違和感、激怒、かっとなる、頭にくる、憤慨する、むしゃくしゃする、ひがむ、横柄に思う、意地悪だと思う、侮辱を感じる、復讐心を覚える、いらいらする、むかつく、、、、、ざっとこんなにあった!


まったく親切なプリントだと思う。特に家族に対して私は経験豊富だった。それらを書けばいいのだ、とわかった。