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2010年 07月 25日 ( 11 )

7月25日(日)

入院は何故この日なのか。手術を受け、予後の処置を継続する。そして私は健康体を取り戻す。


夕方にオペが終わった時、彼は私の寝台にいた。一晩中そこにいた。
「そうしなさい」静かに彼は言った。
「あんたは、あんたの人生を生きればいいさ」
一片の真珠のような光が彼の目に宿っていた。
「××は?」私が聞いた。
「俺は、、、もう、いいさ」と言って笑ってくれた。
だから一瞬だけこの問題は姿を消し去ったふりをした。そのように思えた。


「あんたとは結婚しないと思う」
「息子と二人で生きていけばいい」
そんな言葉に蒼ざめた過去がもう立ち去って行った。


「、、、いいよ」と言う声がした。
「もういいよ。終わったんだ」
「終わった、、、」


「こっちへ来なさい」かつて、そう言って私を抱いてくれた。
それが彼のやりかただった。


そんな特別の友人に対して、、。
何時も私は曖昧な親切心を用意していた。怒りや失望した表情を、最も遠くの位置に設定しているつもりだった。最後にしかし私は彼に対して、失望だけを叩き付け、そして最も必要なことを怠ってしまった。


そんなことを私はしてしまった。
私はだから、今はTVのニュース報道でよく見る、黒っぽいコートを頭から被って刑事に連行される被疑者に似た心の姿をしている。
(おわり)
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7月25日(日)

この1ヶ月間で何が起きたか。


私がお揃いの指輪と腕輪の両方を外していた。


その1ヶ月の直前の週末とそのまた一週間前の週末を連続して私の別荘で過ごした。1泊と2泊。海に近い場所と、山の家の順で。


特段のケンカも無かった、合計で5日間。どちらかと言うと従順で大人しく、空虚そのものだった。つまり無感動で人間らしさを失い始めていた。視点が定まらず、俯き加減でいた。私の用意する食べ物や注文する料理や酒を飲んで、少し食べた。
心の低い場所に、常に静かな怒りを抱えていた。


触ってはいけない表皮を纏っているかのように、私には感じられたので、落ち着かなかった。私に対する無視に近い態度がそれを顕していた。私たちは現実に一緒にいたのだが、地球の裏側程離れていた。何も分かち合えなかった。


私自身の態度は、当たり障りのない会話と、控え目な愛想だった。
親蜜な行為について、仕方なしにジョークの中に隠してみたり、それとは逆に大胆に口に出して言ってみた私は、結局たった一人で敗退して行った。



最初の場所ではこう言った。
「昨日、あんたが夜中に迫って来たけど、俺は拒絶した」そう言って苦笑した。
二つ目の場所で私たちは愛を交わした。


朝。とても短い時間に。
たったそれだけの行為を。間違い無く彼自身がそうした。
ボロボロの体で、それを試みた。

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愛している。
そうしてくれた事は特に、、、そしてそれらすべてを。心から。
(つづく)
7月25日(日)

相手の「死」は、たいてい予期せぬ乗り物に乗ってやって来る。まったく予想外の服装で。大抵の場合、突然に。

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「心の準備をしておきなさい」とH氏はかつて言われた。それがどういう意味なのか。私は真面目に考えていなかったという訳では無い。


「私は死ぬのよ」と末期がんの母は何度も私に向って言った。
「ねえ、あんた聞いてよ。だって私はこれから死ぬのよ」と。
相手から直接そう言われた場合ですら、私は「心の準備」の着手を怠った。


彼は「俺はこれから死ぬ」とは言わなかった。
その代わりにこう言った。
「入院はしない!」
同じ意味に聞こえた。
入院は絶対にしないという事は、死ぬまで酒を飲み続ける事で、結局は死ぬという宣言だった。
(つづく)
7月25日(日)

翌日になっていた。
2010年7月24日 午後4時30分
あ、これは元カノさんが亡くなられた時に、彼自身がそう感じたのとたぶん同じだ、と気付いた。


そして、もし彼の置かれた状況が、私自身の老いた母であったら、私はそうしただろうか。決してそうしなかった、と思う。部屋を片付け、体を拭き、着衣を取替え、水を飲ませ、粥を口に運んでいただろう。
暴言も暴力もすでに消えていたのだから。
私はどこかが麻痺していた。


アラノンの教義とか保健師の言葉「距離を置きましょう」という大合唱。BBFのメンバーの個々の意見「私はなるべく訪問していない」がじくじくと支配的になっていた。「それよりもご自分の人生を楽しむことです」だなんて! 今となっては言葉がない。


結局、私は「彼の愛が自分に対してあるかないか」ばかりを考えていた。


真実の重みは、それ以上のものだ。


距離を置くのがよいか悪いかは個々のケース(の病状)によるが、私の場合それは誤りだった。私の、6月中旬から7月中旬の最後の1ヶ月間において。それは今まで知っていたどの1ヶ月間(つまり、付き合っていた5年間をバラバラの1ヶ月間に区切って比較した場合)とも違っていた。「死」がたぶん既に死亡時刻を設定し、カウントダウンの赤色のデジタル数字が毎秒減って行ったのだ。電子音もまた響いていたに違いない。私は気付かなかった。

母を亡くした時も、全く同じだった。

鈍感な自分であった(しかし不思議な事にサインがあった。7月20日の日記に書いたとおりMacのブラウザにあるドッグのアイコンに白抜きの「1」という数字がバグって現れ、そして静かに消えた)。


母は治らない病だった(高齢で、クラス5の肺ガンだった)。
彼のそれは違った。

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人生の残りは長いとかつて私がメールで書いた時、それに反論した。
「俺はそうは思わない。あんたと付き合って、それを無駄にしたくない」と言った。


人生は誰にでも平等な長さがあると私は考えていた。しかし現実には平等である場合と、そうでない場合がある。(つまり「彼の人生が短い」と私が思うとそれは「不平等だ」という事になる、という程度の意味だが)
(つづく)
7月25日(日)

時間を後回しにする。
オペが終わり、病室に戻りその部屋でうつらうつらする。もう80%は寝入っているのだが、この「眠くてしょうがない」という感覚は、通常の生活で感じる「眠さ」とは幾分異なっていた。命令受けて服従しているような「眠さ」だった。マッサージの先生が病室に来て会話したり、人々の会話、まるで何を喋っていたかは記憶に無い、が聞こえていた。夕食の少し前にそれが去り、食欲が戻っていたのに少し驚いた。前回はそうではなかったから。デジカメで夕食や、自分の姿なども撮った。
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気分がよく、息子に手術の成功をメールした。
ノートとボールペンを取り出し、今感じている事を書きつづった。

こんな内容だった。

目を閉じると様々な情景が流れる。
タイ国で二人乗りのスクーターを運転する。タンデムで乗っている時に抱きついている最中の背中。本当に時たま、私が大好きな表情である振り返った時の眩しい眼差し。
一転して、最後に見た時の散らかったアパートの部屋。私自身に科される過失責任。「保護責任者遺棄致死」という言葉がある、と考えた。

××病院に何度か入院していた時の、D52精神科病棟。階段を上がった時の食堂に現れた姿、パインという名の喫茶店で面会した。毎日のように。その時の眼鏡の奥で笑った。

少しは健康だった頃なので、そう出来たのだ。
しかし肩を落とした後ろ姿もあった。ホームで別れ際、私が冷静な一言を言った時がそうだった。小旅行の帰り、残り物の食糧品の入ったレジ袋をぶら下げていた後ろ姿が目に焼き付いている。

けれど、その時はまだ生きていた。そうだった、血液が巡り、細胞が水分を含み呼吸していた。


ナイフとフォークを使い器用に上手に料理を食べ終わる。本当に綺麗に。最後はパンでソースを拭いて「ごちそうさま!」と言う。あの大きな声が大好きだった。
それが最近は変わった。すっかり掠れた小さな声に。


私が電話をすると決まって「どうしたの?」と聞く。それから「ほれ!」と言って片手を出してくれる。そして私たちは手をつなぐ。若い子たちと同じように。


キスをする時は、大抵は私がそうしたいという表情や動作をする。その1秒後に彼は目を閉じ、僅かに首を上げる。すると私はいつも必ず神聖なものをそこに感じてしまう。彼は一瞬だけ唇の力を放棄する。その後、強さや長さを彼自身で決める時が多いがそうでない時もある。キスを沢山した。その事に感謝している。そんな事を術後の私はつらつらと想い出していた。ノートは続いた。
(つづく)
7月25日(日)

オペ。
一昨日行われ、見事に成功した。
鋼線を挿入する9ヶ月前のオペの際、麻酔薬の影響なのか悪心に苛まれ入院食を4回パスした記憶が新しい。今回も麻酔に敏感になっていた。ストレッチャーで処置室に送られ、点滴の麻酔をまず受けた。ぼうっと体が浮く感じで脳の中心から意識が溶けて行く。試しに両脚指を動かしてみるが、それは可能だった。バッドトリップだけは避けたいと考えていた。薬の機序効果に身を任せよう。吐き気は、たぶんそのお陰で、無かった。オペの時間も前回より短かったので、分量も少なかったのかも知れない。次に筋肉注射というのだろうか、鎖骨の周辺の数カ所に麻酔注射を打つ。執刀した主治医は若い男の医師でたった一人、看護師も一人だけだった。20分位で終わった。抜き取るのに、最後は大変な物理力量を必要としていた。が、痛みは無かった。その後もずっと、患部の痛みは無い。疼痛薬も処方されせずに、だ。


鋼線を抜くまさにその時間、私の脳内に楽しい幻覚があった。何匹かのトイプードルがカラフルなスツールや大きめの積み木や陶磁器の中から顔や尻を出し、剽軽に出入りしているのだ。その光景ばかりが数分間続いた。明るく眩しいステージで繰り広げられるプードル(精巧なロボットだったのかも知れない)のパフォーマンスを前に私の不安は和らいだ。一般的な多幸感とも違っていた。だが悪くない動画だった。


今、私の左腕には再び点滴がはめられている。医師とのやりとりでその方針が決まったのだ。さっき朝食の少し前に、昨日買ったチョコレートを病室内の患者に配った。健康な二人、よいお婆さん、わるいお婆さんの順に。お婆さんたちには口に直接入れた。パラマウントベッドの頭部を高くしてキーボードを打っている。ありがたい事に、このことについて病院側は特段注意しないようだ。
(つづく)
f0204425_20241866.jpg最初の晩ご飯と
f0204425_20254185.jpg最後の朝ご飯
7月25日(日)

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真逆なのだ。
そうではなく、、、、私がその不幸を招いてしまったのです、とまだ(その電話の時点でも、その後のアパートで数時間を二人の妹さん方と一緒に過ごした間にも、数日たった今現在でも)説明していない。


「兄の想い出の品を一緒に整理しませんか」という誘いでアパートに行った時、待ち合わせの時刻に私は建物の外の道路にいた。3、40分のその時間、立ったまま私は3人の人々に携帯メールを送った。
まず、AAの世話になっている友人、私の彼を知っている。一人のカウンセラー、同じく私と彼とを知っている。もう一人のカウンセラー、やはり私と彼とを知っている。私自身の相談員で彼女は彼とは2度しか会っていないが。


どれもが非常に短い同じ内容のメールだった。
「○○様、××さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りします。△△」
3人ともじきに、モバイルなので短い、しかし心のこもった返信を頂けた。


妹さん方との仕事は一段落して、犬を冷房を効かせた和室に4.5時間閉じ込めていたので、先に失礼した。その夜、私はAAの世話になっている別の友人にPCメールを送った。そして姉にモバイルメールを送ったのは、翌朝自分の入院するためのバスの中であった。


「可哀想だね、早死にだったね、、」と姉のメールが始まっていた。


「可哀想」
それが次に訪れた感情のすべてだった。


同時に次の別の感情が待ち構えてた。
「可哀想」という感情には「さみしい」という感情がしっかり縫い付けてあったので、それらは排除すべき、という意見だった。今のあんたに必要ない。「さみしい」とかそんな種類は。
そして「私のせいだ」100%そう、という考えがそれだった。
(つづく)
7月25日(日)

私は外部的にはまず、1人の人間、一階に住む「大家さんの親戚」と話した。構わすインターホーンを押しドアもノックした。
「あの2階の××さんの知人のものですが、、、亡くなったのですか」と私は聞いた。男の人が出て来てくれた。
「ええ、亡くなったそうですよ」
「いつでしょうか」
「昨日かな、いや一昨日かな」
「詳しい事は警察署にお行きなさい。教えてくれるでしょう」と言われた。


2人目の人間は派出所の警官だった。念のために立ち寄った。「刑事課という部署です」
午前9時だったが、私は馬鹿な質問をした。
「その、、警察署はもうやってますか?」「24時間営業です」とその警官が自信ありげに答えた。
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3人目は警察署の受付の警官。
「ここにはもういないと思いますよ」と冷たい言葉が私を打った。9時半頃だった。たぶんとっくに棺桶に入っていた。

4人目は自分の携帯電話でかけた福祉事務所のケースワーカーだった。
この人の高い声はいつもの明るさと機敏さを失っていない。私は一気に話した。
「ご心配でしたでしょう」最後の言葉で私は初めて泣いた。だから警察署のロビーが私だけのためにそこにあった。

5人目も自分の携帯電話でかけた札幌の姪御さんだった。
「今日中に骨焼いちゃうそうです」とその若い女性が教えた。携帯番号を教え伝言を依頼した。

6人目は家の電話でかけた斎場の職員だった。もう午前10時に近かった。
「こちらではわかりませんので」と言い、折り返しの連絡を約束した。
アルコールをたっぷり含んだ体がごうごうと燃えている頃だったのかも知れない。

7人目も家の電話でかけた葬儀屋だった。
「今、火葬が終わった頃だと思います」とやる気のない別の担当が説明した。

8人目は、家の電話に着信した本人の妹さんだった。
比較的長い電話だった。まず「ごめんなさいね」と言われた。真逆なのに、と咄嗟に私は思った。
私はこんな取り込み中の時間に電話してくれるその人に心から感謝した。

当の私の特別の友人は「よっこらしょ」と言いながら、その電話機のそばにある骨壺の中に入っていたのだろう。
(つづく)
7月25日(日)

キリシュナ鋼線を抜いた後の私の一昨日出来た鎖骨の空洞は、もともとは間充識というのだろうか、血液とかが海綿状に詰まっているだけの組織らしいので、また元に戻りつつあるのだろう。


心の空洞にもどんどんと、別の感情が詰まりつつあるのが分かる。例えば、その最初の段階でそれは「何も考えられないような衝撃」だった。何も考えられない衝撃の内容をここで具体的に書く事が出来ない。何ひとつ存在しないからだ。


片付けられ花束の置かれたアパートの部屋を見て。「あ、死んだんだ」と思った。それがそうだった。f0204425_1921347.jpg
「死んだんだ」
と多分私は口にした。
私の犬はその時、一緒だった(その二日前、散乱した部屋に入った私の犬はその時とは違い、盛んに鼻孔を活躍させ異臭を嗅いでいたが)。
(つづく)
7月25日(日)

なぜ耳栓かというと、おひとり、頭の怪我をされた老人がいて、私の部屋はすべて78歳以上の老人なのだが、1日目の夜のイビキがヒドかったからだ。その方は認知の障害を持っていて、自分の金銭の心配事や架空の人物への呼びかけや悪態を盛んに行っていた。職員も同室の患者全員もが手を焼いていた。私は夕方買って来たクッキーを一枚渡すためにカーテンを少し開けると、肩までの灰色の髪を広げて全裸で仰向けになっていた。


「ビスケット、一枚ちょうだいよ、誰か。お腹空いたわ。飢え死にさせる気?」と叫んでいたからだ。
クッキーをあげた後にしばらくして、その老人はまた架空の人物との対話を始めた。
「あなた宍戸さんに連絡してくれない?」
「あなたじゃ話にならないんだから」


そんな病室、要するに仲のよい精神的に健康な二人、普通の老人、極めて高齢のよい老人、悪い老人の5人と一緒であった。


嬉しい事に、肩に入っていたキリシュナ鋼線を土産に貰った。
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それは何の変哲も無い、その辺の工事現場に落ちているような物だった。この物体と私は数ヶ月感苦楽を共にしたわけだ。
その間に様々な事柄が起こった。もちろんキリシュナと私が出会う前も色々あった。けれどキリシュナが私から抜け、その数日まえに私の特別の友人が私から同じように抜けた。
(つづく)