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過去の原稿(10)重度障害者の起業家は34歳

12月2日(木)

『重度障害者の起業家は34歳~最近「事故ル。」という本を書き終えた男~』


どうして障害者になったのか
「乗っていたバイクですか。400ccです。カワサキのZXP」安藤さんは、屈託無く笑った。「交通事故で相手の責任比が10対0だったのです。だから、事故後の経済的な保障はあったんですね」
「面白い人がいるのですが取材してみますか?」ひとりの知人が私に、『㈲パーソナルアシスタント町田』代表取締役という肩書きの安藤信哉さんを紹介してくれたのは10月末のことだった。
「重度障害者の方が重度障害者のためのヘルパー派遣事業所を運営していて、自分のこれまでの事を本に書き上げたばかり。元気な34歳の男性です。興味ありますか?」そのメールはその「?マーク」で終っていた。二つ返事でお願いした。
町田駅から徒歩7分の場所にあるマンション。その一階にあるオフィスの所在に迷った私を案内しに、わざわざ道路まで出て来てくれた。車椅子を自在に操る。そばに若い女性のヘルパーが付き添っている。柔和でハンサム、頭の切れそうな目鼻立ちの男性だった。前髪を分けた髪にさっぱりしたグレーのポロシャツとデニム。

安藤さんは、高3の時、バイクに乗っていて交通事故に逢い、頚椎損傷。事故は100%相手の責任で、経済的な保障はあったものの、映画で「スーパーマン」を演じていた故クリストファー・リーブス氏と同じ病状が残った。手足の自由をまったく失ったのである。その後、1年間の入院と予備校通いを経て、関東学院大学に進学した。通学も講義も、勉強好きの母親が介助した。経済学を専攻し、大学院の博士課程まで進んだとき、障害者支援費制度が始まった。この制度はその理念とは裏腹の結果を全国の障害者にもたらした。介護ニーズの増大に財源不足を憂慮した町田市は、サービスの削減を通告したのだった。安藤さんは大学に通うことが出来なくなってしまった。そのとき「こんな矛盾は何故起こるのだろう」と考えて福祉制度を勉強した。それまでは自分が障害者でありながら、障害者の友人はいなかった。特に付き合う必要はなかったのだ。普通に社会復帰して、大学講師の仕事などで自活できると思っていた。しかし、障害者の知り合いを知るにつけ、自分は恵まれた環境にいることがわかった。


しかも起業家になった、その理由とは
安藤さんは高校生のころから起業家志向があった。事故に逢ったからといって、別にその方針を変える必要はない、と思った。「手足が不自由なら、残された頭を使いなさい」そんな母親の言葉は特別に厳しかった。自分の人生は自分で切り開くべきだと考えた。大学に通えなくなってしまった安藤さんには、別の障害者の存在が目に入った。この制度の発足で、家にひきこもったり、生きていけないほど劣悪な環境になってしまう仲間がいることを知ったのだ。愕然とした。他人事ではなかった。困っているどうし、力を合わせて会社を作ろうと思った。
8年後の26歳の時、一大決意をして横浜市の親元を離れ町田市でのマンションで一人暮らしに踏み切った。障害者用にマンションの部屋の大改造を行った。その5年後の31歳の時に、会社を立ち上げた。資本金も借入金も自己資産から調達した。はじめたときは4人の利用者さんであったのが、今は12人となっている。会社の理念は「自己選択・自己決定を貫徹する自薦ヘルパー型の事業所」であり、利用者一人ひとりが、「この人」というヘルパーを探し、介護を依頼する。今年で2年目。利用者のほとんどが安藤さんと同様の症状の重度障害者だ。頚椎損傷患者には知的な障害は全く無い。しかし24時間の介護が必要だ。比較的若い12人の利用者に71人のヘルパーが、シフト制で付く。夜中でも寝返りなどの介護が必要なため、隣室のソファーで寝てもらう。安藤さん自身も、一日数回の訪問看護を受けながらの勤務だ。
「今、抱える最大の問題は、毎年福祉予算が削減されることと、低賃金で熟練ヘルパーが辞めて行くことです。基本的に国の報酬単価がとても低いのでヘルパーの成り手が少ない。対GDP予算比も先進諸国の中で最低に近い。男性ヘルパーに寿退職者がいるくらい(笑)」


安藤さんのプロフィールをもうちょっとだけ
そんな安藤さんには、熱い仲間たちがいる。市立希望が丘高校の卒業生仲間だ。ことあるごとに「プチ同窓会」を元担任の家で行う。送迎も介護も同級生たちだ。安藤さんが何人かに「重度訪問介護資格」を取らせてしまったのである。元担任の夫が、最近安藤さんが自費出版の本(2月発売予定)のタイトルをつけた。「それは『事故ル。』だね」、彼も奥さんと同じ、国語の教員だ。そんな安藤さん自身にもまた、婚約者がいる。28歳のヘルパーだ。来年挙式予定である。
二度目に事務所を訪れた私は、安藤さんにいくつかの質問をぶつけてみた。


頚椎損傷とは?
―頚椎損傷とはどのような病状なのですか?
「肩から下の感覚は無いので。手も足も動かないということで、生活全般が大変な障害なですね」
―事故にお遭いになった瞬間の痛みはあったのですか?
「それは無いですね。首の骨を折って頚椎神経が麻痺すると、感覚がまったく無い。擦り傷だけでした。骨折も無い。よく憶えてないですけれど、クルマにはねられて、たぶん反対車線側のガードレールに頭をぶつけて、首の骨を折った。むしろヘルメットを被っていたから首の骨が折れちゃうんです。頭は保護されるんですが、その下の首が支点になっちゃう。気が付いたら病院の集中治療室にいました。6時間くらい記憶を失っていて、痛みは無いけれど、手足が動かないですよ。ずっと体が正座して痺れている感じ。正座すると足が痺れるじゃないですか。ああいう感じでずうっと体が痺れている」
―入院中、痛みとかはありましたか?
「痛みとかは無いのですが。大変ですよね。ベッドからまったく動けないって言う事は」
―生活全般ご不自由?
「生活すべて、全般ですよ。トイレも自分で出来ないし。すべて介助です。食事も何もかもです。ウンチも自分が出したいとかではなく、自然に出てしまうので、臭いでわかる。大の大人が失禁するというのはね、そういうの、辛いですよね。目の前にご飯があっても誰かがいなければ食べられないですし」


介護はタダ働き
―今は24時間介護でいらっしゃいますよね。
「もちろん、今はそうですよね。でも親がいた時は親が買い物行っていれば、誰もいないし、ベッドから落ちても誰もいない。介護は、家族介護の方が逆に大変です。家族、親子の関係は、もう介護苦戦争です。年に何件かあるじゃないですか、親子で殺し合いになったりする。一杯一杯になってしまって。基本的にはその家族が死ぬまで介護です。以前は生計を別にすれば、介護費用が出たのですが、今回法律が変わったので、生計を別にしても出なくなった。日本では昔からそうなんです。「家族が看るものだ」という考えだった。大家族で。ところが核家族に変わった。そこで問題が顕在化したわけです。高齢化社会の中では障害者の問題もあったわけですが、なかなかそこまでスポットライトが当たるような社会ではなかった。なるべく家族に頼らず、むしろ社会が看るという環境の方がが良いと思うんですけどね」


ポジティブ・シンキングになった
―絶望的な状況から、どのようにしてポジティブ思考を持って立ち直ることができたのですか?
「どうだったかな。時間でやっぱり・・・。障害を受容するということだったと思います。障害の受容っていうのは、「否定」から入って「怒り」に変わって、その後「受容」に至る。この医学的に言われているその「受容」です。実は僕も1年位かかったと思います。まあポジティブシンキングにどうしてなれたかと言いますと、まあ友人の助けと親の援助と、それとボクの勝気な性格。18歳の時に交通事故に逢って、高校3年の秋から病院に入院していたんですね。聖マリアンナ西部病院という所。学校帰りに友人が毎日遊びに、というか見舞いに来てくれた。とにかく落ち込む暇が無かった。9月から翌年の5月まで。その後、5月から10月まで神奈川リハビリテーション病院。最初の8ヶ月間に友達が来るので、落ち込んだ態度を顔に出せない。もともといじめっ子の性格だったし。その友達の影響と、あとは母ですね。叱咤激励というか、厳しい母なんで「障害者になったからってクヨクヨしないで、残った頭を使って頑張りなさい」と言われた」


親子は他人のはじまり
―「手足が不自由なら、残された頭を使いなさい」とおっしゃったお母様はお強いですね。一体どのような方ですか?
「母親は元教師。勉強が好きだったので教師になったんです。父親も、叔父も祖父も親戚中教師一家だった。僕もだから大学講師を目指していた。母親とは性格が似ているので、仲が悪い(笑)。喧嘩はしょっちゅう。大学に入ってからは親が付いて来ますから、毎日授業参観みたいなもので、ぼけっとしていたりすると「さぼっている」と怒られる。おかげで大学は優秀な成績でした。「親子は他人の始まり」「私の介護はタダ働き」などとけっこうきついコトバを言った。だからと言ってゴリゴリ勉強しろとは言わなかった。母のことは自分の書いた本に詳しく書いています。母は教師として優秀だったんですね」


大学院に通えなくなった理由と起業までの道のり
―大学に通えなくなった理由は具体的に何だったんですか?
「一日20時間の介護費用が12時間に削減されたんです。食事・排便などの基本的な生活補助に回すしかなくなった。と同時に通勤、通学、通所にヘルパーが使えなくなった。補助金が削減されましたからね。ちょっと誤解を呼ぶんですが補助金というのは、自分に入ってくるお金じゃない。町田市に入って来る国の予算。正確には国庫補助金が支援費制度の時に削減されて、それに伴って予算がないから時間数を削減したんです」
―どのような手順で起業を始めたのですか?
「まず5年前に障害者運動を始めました。『チェーンの会』という障害者グループを発足させた。40人ほどの仲間がいます。そのうちの何人かの仲間と3年前に会社を作った。会社自体は僕ひとりで起業しました。仲間とは、つまりお客であり従業員です」


「自薦方式」とは?
―「自薦方式」と聞くと、障害者自身が自分でヘルパーを探すなど、素人が聞きますと、何か大変そうに聞こえますが。
「最初の時点では公民館にビラを貼ったり、人づてに紹介してもらったりしてヘルパーを募集した。かなり大変でした。以前の制度では資格が必要だったので、介護学校へ、アルバイト募集のチラシを配ったりもしました。今では事業所を興したので、会社の名前を使ってハローワークを通して募集をかけてます。そこへ応募してきた内容を利用者さんが目を通すというやり方です」


給料は15万円だけ
―安藤さんの所得についてお聞きしてもいいですか?
「いいですよ。僕の場合は会社の月収は15万円なんです。それ以外、全然お金をもらっていないし、お金をもうける気もないんです、基本的には。その分だけ利用者に回せればと思っています。僕の場合はその他にも障害者年金(国)、障害者福祉手当(都道府県)、それらが月額17万です。これはいわゆる最低限の生活保障ってやつ。ギリギリですね。まあ、ですから一般障害者は月額16~17万で生活しています。一番重度でもそうです。一般的に重度障害者は就労出来ないですからね。生活保護と同じですよ。で、自分は交通事故なので補償(保険会社)もありますし。15万円だけだと生活はままならないけど(笑)。だから生活は別に贅沢してませんが、いやボクは贅沢な方かな(笑)。普通の大企業や中小企業の社長以下ですよ。営利目的の会社ではなくて、ボクらは生きるためにやっている。こういう事業所が無いから、ヘルパーさんが必要でその運営を行う会社が必要だから、始めたのです。ですから「起業家」という言葉も、まあいいかなって思って使ってるんですけれども、まあボクも起業家って言えば起業家ですが、ホリエモンのような営利を目的にしたものではないですからね」


差別ありますヨ
―差別をお感じになるのは、どのような時ですか?
「差別だな、って思うことって時々あるんですよね。一般の人は通常、それは非理解というか、理解が無いからね。歴史的に見て、一番差別だなってボクが思うのは、義務教育課程の就学免除です。障害者だから小学校に来なくいいと。それは無いですよね。教育を受けなかったため、文字も読めない障害者がいっぱいいるんですよ。日本が識字率100パーセントなんて嘘ですよ。親がちゃんと教育すれば乙武君みたいになるかも知れないけど。そうじゃなければ、もう字も読めない。社会性も無い。ただ日々を生きるだけの人間になってしまうんですね。就学免除になったのは、重度障害者です。制度自体はかれこれ30年前からありますよ。だから本当だったら、差別の無い社会を言うなら、統合教育がいいですよね。そこに税金を投入することで理解を得ることができると思うんです、ボクは。介助者を入れてね、障害児が授業を受けられるということ、その辺に理解が無いなと思いますよ」
―バリアフリーも、まだまだですよね。
「ここ10年位ですごく進みましたけれど、まだバリアフリーじゃない。たまにご飯を食べに行くのが好きなんですが。ボクはB級グルメなんで(笑)。この町田市でもなかなか、入れる所が少ない。段差があって。この間なんか秋葉原に行って、段差が一段あった。一段の段差なんか(車椅子を)ちょっと持ち上げれば入れるんだけれど、最近だと気の効いた店員さんだと「手伝いますよ」とか言ったり、ダメな場合でも「申し訳ありません。今お店が混んでいて」とやんわり断るのが普通ですが、「すみません、車椅子なんで、いいですか」と言ったら「いやごめんなさい。車椅子今やってないんですよ」と答えた(笑)。そういった不理解もありますし、またこの間は「ペットと車椅子お断り」という看板もありました。「車椅子」ですよ、犬・猫と同列ですからね(笑)。大分ね、相互理解が進んで来つつある、けれど、人々にもっと理解して欲しいと思いますよ。今回あなたの取材を受けたのも、そういったことを考えたからです」


面接、研修、・・・しかし最後は不採用
この取材終了後の時刻に、ヘルパー採用応募の面接の予定が入っていた。安藤さんは気楽に「面接、見ますか?」と私を誘ってくれた。「はい、ぜひ」とお願いした。
「最近は『でもしかヘルパー』と協会で言われているんですが、本当に痛いヘルパーが多いんですよ。『痛い』っていうのは『頭が痛い』っていう意味です。広告で募っていますし、またヘルパーは慢性的に不足してますからね。不景気ですし。そんなの多いんですよ。それを断っていては生活出来ないので、資格も持っていない。でも、それを取らしてから育てる。それで一人前にしたら辞めちゃったりして(笑)。優秀な人は、幹部候補生です。そんな人は会社が離さないです。本職は別にある人ばっかりですよ。バンドの夢を持っていたり、アート活動をやっていたり、後は勉強している人などですね」
応募者から、町田駅に到着したという電話を受け、安藤さんは丁寧に道順を示した。
「こんなですからね。だって『あのー町田駅の南口に着きましたが・・・』ですよ(笑)」
安藤さんは私に笑顔を見せた。
「応募者たちは、何て言うか皆こんな調子です。きっとまた電話かかってきますよ」
「フリーターですか?」と私は聞いた。「というよりニートですかね」
そして案の定電話は数回続き、優しい中年女性のヘルパーさんも、苦笑いしながら受話器をそのたびに手渡した。安藤さんも何回も道案内を繰り返した。「今建物の外に迎えに出ますから。で、何色の服着てらっしゃいます?」事務所のドアが開き、小さく挨拶したのは、イエローのチュニックを着た小柄な若い女性だった。渡された履歴書を手にしながら、安藤さんは会社の説明を丁寧に行った。そのあとに23歳の女性にその経歴を聞き、また希望勤務時間帯などに触れた。
「で、時間帯に関しては割と重要なんです。お分かりでしょうが昼間勤務は希望が多いですからね。ヘルパーは割りと足りています。夜はどうですか。夜と言っても、まあ『待機』勤務ですがね」
「家に一緒にいる人に聞いてみます」
可愛いらしい女性なので同棲中の彼氏かも知れない。そう答えて立ち上がった。
「お疲れ様でした」
私も壁際の椅子から立ち上がり挨拶した。
「今日はありがとうございました。夜勤の件、わかったら電話します」ドアが閉まった。
「1級持ってますね」テーブルに立てかけた履歴書を眺めながら、安藤さんは呟いた。
「1級は少ないんですか?」私が聞いた。
「法律的な知識も必要ですからね。2級だって持ってない人多いです」
同室のヘルパーさんも微笑んでいる。応募者は特養ホームで3年間の職歴があるらしい。こうやって若い会社経営者は、地道に人材を一つ確保するのだと思った。
しかしその後の取材日に、彼女は採用取り消しになった、という話を聞いた。残念ながらひとりの利用者さんが、その面接時に、「あまり機転の利かない」という彼女にたいする評価に加え、「相性が合わなかった」というのがその理由であったと聞いた。


XY理論と、その経営者
「XY理論ってご存知ですか。人間には2種類ある。低次元の要求を持つ人間と、高次元の要求を持つ人間、それらの行動様式。これは経営学の話なんですね」安藤さんは最後に生き方の話題に触れた。
「同じように障害者にも二通りのパターンがあります。引きこもってしまう人たちと、頑張って生きて行く人たち」
ちょっと洟をすすった安藤さんは私に声を掛けた。
「すみません。そこのティッシュを1枚取ってください。はいそのオレンジの箱です」私はちょっとドキドキしながら数枚のティッシュを軽く彼の鼻に当てた。そして再び笑顔で向き合った。
大変気になったことが一点あった。実は一回目のインタビューでこんな発言があったのだ。
「僕は障害を武器にして挑戦した。だからどんな人だって、くじけず、周りの人の力を遠慮せず借りて生きて行けばいいんです」
それは非常に強いメッセージだった。そこで「障害を武器」という意味をもう少し知りたくなって、説明を請うたのだった。


僕は障害を武器にして挑戦した」
「つまり僕は障害者で飯喰ってるようなものですよね。お客さんなわけですよ、僕も。それがひとつでしょ。で、それまでは、大学に通っていた時期は障害者でありながら、障害は関係ない人生を選んでいた。自分が障害者であるか健常者であるかは関係ない生き方をしていた。もちろん障害者であることを意識していましたが、隠すというのとは違うけれど、障害を利用するという意識は無かったんですよね。それまでは障害者の友達も無かったんですしね。だけど介護時間を削減されてよく分かったのは、傷害者の人たちがたくましく生きているという事。「辛く楽しく」生きているっていうことかな。そうです「辛く楽しく」です。厳しい状況の中で生きているっていうかな、それはわかりますよね。乙武くんはある意味、障害を武器にしている。スポーツ評論という職業はパラドックスじゃないですか。自分は運動は何も出来ない、そういう人間があえてスポーツライターをする。あえて障害から遠い所を選ぶ。視点が良いですよね。あれが障害を武器にするっていう意味だと思うんですよ。乙武君がそう思っているかどうかは知らないですが、構造はそうです。もっと言えば、障害を悪そうに見せる人もいるんですよ。そうした方がサービス時間数を増やさせる。そういう人も実際問題としています。
あと、僕自分が障害者だから利にかなったサービス提供が出来るってことも「武器」と言える。健常者だと理解できないサービスを考えられる。自薦だから、自分で何でもやる。でも自由って辛いんですよね。奴隷の方が楽です。よく言うじゃないですが、何でも自分で決めない方が楽って。特に障害者の施設に長くいた人は施設病って言ってね、何でもある意味いたれりつくせりの環境に馴れてしまっている人がいます。そういうお客さんはウチではダメですね。ウチでは自分で色々決める。利用者さんに権限がある。例えば賞与の査定を利用者さんに聞く。そうしたら利用者さんにしても自薦のメリットが出てくるでしょ?」
車椅子の若い経営者は明るい表情で語った。心が熱くなった。健常者の私が逆に励まされたと感じたからだ。「どんな人だって、遠慮せずに挑戦して生きていけばいい」という言葉が暫くの間、胸の中で快く響いていた。
    
by necojill | 2010-12-02 20:26 | 書き残し | Comments(0)