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過去の原稿(9)今、日本の中のチベットは どうなっているか

12月1日(木)

『今、日本の中のチベットはどうなっているか―在日チベタン、リンジン・野口さんは熱く語る―』

【長野が赤い中国旗でおおわれた時…】

「どこに行っても追いかけて来ました」
その後「中国人たちは・・・」と言ったきり、リンジンさんの表情には一瞬の戸惑いが横切った。「あ、その事はいいです」と早口に言葉を隠した。そして再び話始めた。「私たちはたった二つの目的で長野に行ったのです。それは、善光寺にお礼の気持ちを伝える事、そしてチベットの事を忘れないでと訴えたい気持ちです」。
2008年4月長野聖火リレーの経路では赤い中国旗が激しく舞った。その映像はテレビ 報道を通じ多くの日本人の記憶にまだ新しい。その聖火リレー出発地を「中国政府の仏教者への弾圧を憂慮して」辞退した善光寺。その4ヶ月後に北京五輪は終った。世界では中国政府の態度に対し、さまざまな反発が起こった。ニューデリーをはじめとする世界各地でのチベタン(チベット人の英語読み)の拘束。それらへの深い悲しみと怒りを込めつつ、静かで慈愛にみちた動きがいま日本の各地で起こり、そして現在もある。「チベットの文化と伝統を守ること」を至上の目的と掲げるダライ・ラマ14世。その同じ道筋で穏やかだが、しかし心の底から強い平和と自由への希求を求める一人の在日チベタン女性を中心に取材を行った。
[写真提供: SAVE TIBET NETWORK]  


【思いやりのご来光in富士山】

標高1440m午前4時、7月28日といえどもその会場は、山の冷気に包まれていた。屍のように転がる寝袋の中の人たち。そうでない人々は、東の空を気にしていた。逆の方角、そこには蒼味かかった富士山が鎮座し、その刻々と変化するたたずまいも感動を呼んだ。読経がゆっくりと流れた。エンジ色の袈裟をまとったチベットの高僧、パルデン・ギャツォ氏は両側からは身体を支えられて低いステージにいた。なんと28歳から61歳までの33年間を中国の獄中で過ごし、アムネスティの尽力で救出された。強靭な精神力と深い信仰心が老体から漂う。


【いくつかのメッセージがあった】

前日の深夜10時からフラの踊りや唄、琵琶、馬頭琴、ギターに続き、パルテン僧の読経があった。チベット経だ。護摩火入れ、般若心経の読経に包まれながら踊る人々。ディジュリドゥとシタールの響きが耳奥に注がれる。ダライ・ラマ14世からのメッセーがあった。それとは別の短い祈りも。
「この虚空が存在する限り
 生きとしいけるものが存在する限り
私も存在し続けて
すべての生きとし生けるものの苦しみを滅することができますように」
この祈りはご来光とともに捧げたものだった。200人の参加者、その多くは日本人だった。その高地で催された精神性と芸術性の高い集まりに彼らを惹き付けた力は一体何だったのか。世の中には「心ある人々」という表現があり、正義や善意を呼び覚ますその言葉は恐らく芸術と宗教、そして平和を理解する人々の心と深く結びつく。このイベントの呼びかけ人はアメリカ在住の「NPOガイアホリティックス」会長の龍村和子氏だった。映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の龍村仁監督の姉にあたる。その4日前の7月21日に、NY在住の楽真琴(ささまこと)氏がパルデン僧の人生を描いたドキュメンタリー映画「雪の下の炎」の上映会が新宿であった。その会場で、既に私は一人の在日チベタンを紹介されていた。彼女をより身近に感じたのは、富士山の2日後に神奈川県藤沢市湘南台の公民館で行われた料理教室であった。チベット餃子「モモ」と「バター茶」を作る料理教室。講師はリンジン・ギャリ・野口さんであった。

     
【ヒマラヤの子どもたちのお母さんだった】

細面の柔らかな人柄だった。チベット文化研究所、和光大学、フェリス女学院大学でチベットを中心にヒマラヤ文化、チベット語を教えている。また国際開洋高等学校を経営する自民党の井脇ノブ子議員とともに、96人のヒマラヤ出身の高校生や大学生の教育や日常生活の母親役を行っている。1959年チベットの領主の息女として生まれた。その年中国の侵略があった。ダライ・ラマ14世が亡命した後を追い、家族でインドに亡命。インドで教育を受けた。その後、航空会社で働いていた時に日本人の野口氏と出会い、国際結婚した。在日21年目で日本国籍を取得している。二児の母。20歳の長男は活仏(いきほとけ)としてインド北部の都市ダラムサラのチベット亡命政府に住む。その日の参加者たちは料理を楽しみ国際交流の機会を持った。快く数日後のアポイントを承諾した彼女は、まず自分の生い立ちから話してくれた。


【一本のバナナが数人の子どものお腹を満たす話】

「チベットでは自己紹介というものはありません。それが自分を自慢することになるからです。普通は親の名前から言います。なぜならば親がいなければ子どもは存在しないわけですから。私は父、ギャリ・ニマの娘で、母は「上の母」と「下の母」の二人の母がいます」。その一夫多妻については、後に語ってくれた。一軒のファミレスで、私たちは暖かい紅茶を注文し、たっぷりのミルクを入れた。彼女には外国人独特の訛が少しあった。それも妙に感じがよかった。私はテープレコーダーを回す許可を貰い、リンジンさんの優しい次の言葉を待った。
「私が生まれたのは中国がチベットを侵略した1959年でした。ですので、チベットのどこで生まれたかはよく知りません。覚えていた事は、ギャリ家のお城で生まれたすぐ上の姉に、私と喧嘩した時いつも、あなたは何も無い所で生まれたと言われた。姉は死ぬ時もお城で死ぬ事ができると言っていました。事実姉はインドのザンスカルの王様へお嫁に行き、そこで亡くなりました。私は生まれてから日本国籍を取るまで、ずっと亡命生活でした。子ども達が沢山いる大きな家で育てられました。小さい時から、一つのものを手に入れても、お互いに分け与える事を学びました。父はこう言いました。一本のバナナでも一人で食べれば一人だけお腹が一杯になる。しかし皆で分ければ皆がお腹一杯になる、と。私は、チベット亡命政府とインド政府が共同運営している学校で11年間の教育を受けました」。


【チベット難民学校で本当によかった】

「東チベットで私は領主の娘であったので、その事は知っていましたが、あなたはそうなのですよと言われていても、自分は皆と一緒であると考えていました」。
黒い髪を後ろに束ねている彼女の服装は地味な雰囲気がした。しかしゴールドや宝石を施した何点かのアクセサリーが襟元や袖に品良く身に着けてられていた。
「学校では、あまり勉強の出来ない子や社会的に地位の低い子といつも一緒に過ごしていました。それは一番楽しい経験でした。月一回の外出で映画を観に行っても、領主の娘なので良い席に座らなければなりません。しかし私はその席のチケットを換金して、一番安い席のチケットを何枚も手に入れ、皆と一緒に観ました。お土産をもらった時も、友達皆で分けて食べました。一人より沢山の人と一緒にいるのが楽しいのです。それは今もそうですし、チベット社会自体がそうでした。その後インドでは一番優秀とされるデリー大学を卒業しました。授業料は非常に安かったのですが、それでもそれを無駄にしてはいけないと皆思い熱心に勉強しました」。
「今から考えると当時の難民学校はすごく良かったと思う」。しかし幸せな表情は次の言葉で遮られた。「それは私たちがチベット語を含み、色々学べたからです。しかし、今のチベット本土では、殆どの学校ではチベット語を教えていないのです。チベット人はチベット国内で、自分達が望んでいる教育、宗教を信ずること、文化を生きることを非常に大切に思っています。自由に生きるということです。しかし今はそれが出来ないのです」。リンジンさんの切れ長の瞳は遠い故郷に思いをはせていた。


【五大元素って一体何?】

リンジンさんはまた五大元素というエレメントの継承に関し次のように語った。
「チベット本国で1959年以前は、お寺が沢山ありました。昔、五大元素はそこで学びました。亡命社会の学校では親代わりの大人たちがいて、小さな子供を中心に学生の世話をしています。その人たちが五大元素の事なども教えます。その学校では8科目の授業があり、チベット語の授業の中で歴史・文化・道徳などを教えます。それに加え、山、川、太陽などの詩の授業がありました。詩はなぜ重要かと言いますと、自分の身体が何で出来ているかという事に触れるからです」。その五大元素とは一体何か? 多くのチベット人がいかに仏教に帰依しているか。それは日本人の比ではない。その仏教が7世紀にインドより伝来する以前、チベットの地にあった宗教がボン教であった。日本の神道に似て、アニミズム信仰が基本にある。その中に五大元素という考えがあり、地・水・火・風・空の5つを崇める。リンジンさんは続けた。
「宗教というものは勉強ではなくて、もともと身に付いているものです。人のものを盗むなとか、人の前を横切ってはいけないとか、料理をした時にそれをこぼしたら火の神様がいるからいけないとか、山とかでオシッコをしたらいけないよ、など人が見ていなくてもそうしないことが大事なのです。格好をつける事ではありません」。
「昔昔はこの五大元素とともに人々はいた。地球と一緒に住もうとすれば必要な事だ」ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(略称チベット・ハウス)渉外担当ツェワン・ギャルポ・アリヤ氏は付け加えた。環境問題の原点がまさしくここにある。その五大元素に関係し、リンジンさんから、もう一つのメッセージがあった。「これからは世界中の人々が、オリンピックももう終わったことですから、四川大地震の援助のためにお金を送ると思います。お金を援助するからには、その資金がそのように使われるかという内容に責任を持つ必要があります。四川省は木が豊富です。チベットの家はみな木造です。そのチベット文化をどんどん無視して、中国式の開発を許し、それで良い事をしたと思っても悪い事をしたことになります。それ自身が自分の功徳ですから」。チベット・ハウスのアリヤ氏もまた提言した。「中国政府はチベット人の望みを聞くべきだ。そして日本人は『草の根』つまり自分の足元から行動を起こすことです」。そしてリンジンさん、「でもオリンピックには感動しました。金メダルを沢山取って、よくやるなあと思いましたよ。しかし、一人ひとりの幸せがそこにあるかというと、そこには無いと思います」。             


【一夫多妻はレストランのメニューのチョイスに似ていた】

最後の質問は「性」。性・家族、それらは時代に伴い変化する重要なテーマだからだ。
「今の日本で結婚していない女性が多くいます。チベットの社会では、女性であれば結婚すべきであり、そうでなければ尼さんになれば役に立つと考えます。日本では40、50代の女性が、若い20代の男に金を使って付き合っています。それで男が弱く
なって行きます。社会とは自分達で作るものですから。チベットの場合、もともと国内では結婚しても登録しません。財産は誰のものということなく全部一緒になります。離婚で出る人は、身一つで出て行くだけです。子も財産も捨てて。多くの場合、男を作って出て行きます」。「また最近の若い人の間には少ないですが、60歳以上の人々の間には、一夫多妻やその逆もあります。その結婚形態では皆が幸せになる事が出来ます。人は一度に複数の人を好きになる事が出来るのです。オーケー例えば」と、レストランのメニューの写真を指した。「このメニューのこの料理を食べる時、こちらの料理もまた食べる事が出来る。それと同じ。一人ひとりの役割が自然にあります。平等にコレしなければならない、とかではありません。大事なことは誠実な心でお互いを信頼することなのです。3人、4人とも一緒に意見が合って暮らしています。嫉妬など、そんなものはありませんよ」。愉しそうに笑った。逆にDVが問題視されている現代チベット本国。そこでは外部文化の浸入と管理による社会的ストレスが夫婦間に牙を剥く。それとは対極にあるおおらかさを今どう振り返り、抱きしめるのか。


【まるでチベットのスーチーさんだ!】

「皆さん、トゥジェチェ。チベット語でありがとうという意味です」。その日リンジンさんの華奢な身体が恵比寿の区営公園の高い壇上にあった。「皆さんに感謝しています。今、亡命社会は13万人の人しかいないです。今年は1959年から初めて、世界中の人々がチベットのことを応援したことをチベット人一人ひとりが心からそう思っています」。まるでアウンサン・スーチー氏のようだ。この夏、五輪開催にからみ東京ではいくつものデモが絶えなかった。そのうちの一つが2008年8月24日、在日チベット人コミュニティ主催の第二回目のピースデモだった。「チベット人たち、外にいる欧米社会にいるチベット人だけでなく、一番多い590万人のチベット人たちはまだチベット国内に大変苦労していて、一日一日も自由が無い。今年の北京オリンピックには感謝しています。世界中の人々がチベットの事を語りました。そしてチベット国内にいるチベット人たちも、自分たちの事が忘れられていないと知ったので、きっと勇気を持って生きていけるでしょう」。
護国寺での断食、ミッシングピース、そして人々の祈りは毎晩続く。


今回の取材は、チベット問題という複雑でいて驚くべくも単純な「悲しみ」と「豊かな文化」を同時に語る「行為」の始まりに過ぎない。真言宗大本山護国寺の薬師堂には、有志により毎晩、チベット経の読経が響いている。この9月10日には悲しむべき魂に向けて世界同時断食供養が執り行われたのもこの寺であった。さらに『ミッシングピース展』。このエキジビションのコンセプトは「平和」。坂本龍一氏ら国際的なアーチスト60名が、ダライ・ラマ14世のメッセージ、ヴィジョン、活動からインスピレーションを得て制作した作品を代官山ヒルサイドテラスで展示する。10月17日からの23日間の開催期間だ。今回私の歩いた富士のご来光から始まり、善光寺、護国寺、代官山につながる長い回廊には多くの「心ある人々」が参列している。リンジンさんの繊細で抑揚のある日本語の響きが、私をたち日本人をも逆に勇気付け続けているのも、確かにこの同じ場所だ。道はその先へと続く。
by necojill | 2010-12-02 20:17 | 書き残し | Comments(0)