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病院にて(8)

7月25日(日)

翌日になっていた。
2010年7月24日 午後4時30分
あ、これは元カノさんが亡くなられた時に、彼自身がそう感じたのとたぶん同じだ、と気付いた。


そして、もし彼の置かれた状況が、私自身の老いた母であったら、私はそうしただろうか。決してそうしなかった、と思う。部屋を片付け、体を拭き、着衣を取替え、水を飲ませ、粥を口に運んでいただろう。
暴言も暴力もすでに消えていたのだから。
私はどこかが麻痺していた。


アラノンの教義とか保健師の言葉「距離を置きましょう」という大合唱。BBFのメンバーの個々の意見「私はなるべく訪問していない」がじくじくと支配的になっていた。「それよりもご自分の人生を楽しむことです」だなんて! 今となっては言葉がない。


結局、私は「彼の愛が自分に対してあるかないか」ばかりを考えていた。


真実の重みは、それ以上のものだ。


距離を置くのがよいか悪いかは個々のケース(の病状)によるが、私の場合それは誤りだった。私の、6月中旬から7月中旬の最後の1ヶ月間において。それは今まで知っていたどの1ヶ月間(つまり、付き合っていた5年間をバラバラの1ヶ月間に区切って比較した場合)とも違っていた。「死」がたぶん既に死亡時刻を設定し、カウントダウンの赤色のデジタル数字が毎秒減って行ったのだ。電子音もまた響いていたに違いない。私は気付かなかった。

母を亡くした時も、全く同じだった。

鈍感な自分であった(しかし不思議な事にサインがあった。7月20日の日記に書いたとおりMacのブラウザにあるドッグのアイコンに白抜きの「1」という数字がバグって現れ、そして静かに消えた)。


母は治らない病だった(高齢で、クラス5の肺ガンだった)。
彼のそれは違った。

病院にて(8)_f0204425_2243548.jpg

人生の残りは長いとかつて私がメールで書いた時、それに反論した。
「俺はそうは思わない。あんたと付き合って、それを無駄にしたくない」と言った。


人生は誰にでも平等な長さがあると私は考えていた。しかし現実には平等である場合と、そうでない場合がある。(つまり「彼の人生が短い」と私が思うとそれは「不平等だ」という事になる、という程度の意味だが)
(つづく)
by necojill | 2010-07-25 21:07 | 書き残し | Comments(0)