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「依存症家族講座」で私は、

11月24日(火)続々

「言いっ放し、聞きっ放し」の約束がある。厳密に言うと、自分がそこで何を喋ったかという事も公開してはいけないらしい。私にはその根拠までは分からないのだが。

とりあえず、それを行ってしまう。

私はこう言った。
「酒を止めるきっかけが知りたいっていう先程の方のお話でしたが、私もまったく同じです! 難しいですね。それと、、、、あ、失礼いたしました。本人も私も50代のバツイチのカップルですが、本人はダメージが大きく寝ているか飲んでいるかの生活です。よく手助けをしないこと、と言われますが私は最近、色々考えた末、120パーセント手助けをしてしまおうと思いつきました。と申しましても、別々に住み、離れておりますので、限られた時間ですが」

「例えば、この間の連休では、ネズミの声の聞こえる部屋の大掛かりな掃除や、レンジの錆落とし、ゴミ出し、布団干し、コインランドリーの往復、本人にシャワーを浴びさせるなど、様々行いました。その理由としましては、回復するしないは本人の仕事ですが、もし回復しないまま逝ってしまうとしたら、その前に色々やってあげたい。それをしないと自分が後悔すると思うからです」

(その時、その場で「彼を愛しているからです」と言わなかった、言うべきだった)

「今、彼は以前のように始終怒ったりしていません。手助けすることに『ありがとう』と言います」そこでソーシャルワーカーのコメントを漠然と求めた。彼は言った。


「ここでは、別に否定はしません。120パーセント手助けをしたい、とおっしゃる周囲の方に対して、そうするなとは言いません。けれどあなたがどこか彼のために犠牲になっていると感じているとしたら問題です。ただそのことだけですね」


あらら、私の表現がよろしくなかったのだと感じた。犠牲? そんなものはどこにを探しても存在しない。犠牲? それこそとんでもない感情だ。母はしばしば使っていたが。私は心の平安をすら、手助けする中に見いだしている。少しオーバーに聞こえるかも知れないが、本当なのだ。
by necojill | 2009-11-24 19:09 | 書き残し | Comments(0)